要約①読んだ本と読んでいない本のグラデーション
本を読んだ=「ある本について完全に理解した状態」
本を読んでいない=「ある本から全くの影響を受けていない状態」
と仮に定義すると、
その両極のどちらに位置することも難しいと思われる。
(本書ではこのような定義は使われておらず、あくまでブログ作者の仮定義です)
ある本について完全に理解するということは、その本が書かれた当時の社会状況や作者の状況といった背景から、作者の思いまでをもすべて理解するということになるが、それはたとえ作者本人であっても無理だと思われる。
ある本から全く影響を受けない状態というのは、たとえその本の存在を知らないとしてもなさそうである。なぜなら世界はつながっており、全く他者の影響を受けない存在というのはあり得ないから。
例:アフリカの奥地で暮らす言葉を持たない先住民も、気候変動に影響を受ける。気候変動に影響を与えている大企業で働く社員、昔読んだ絵本が彼の人格形成に影響を与えている。彼の人格は彼の仕事ぶりに影響を与える。つまり、その絵本はアフリカの先住民に影響を与えている。
そのため、すべての人間はその両極端の間のどこかに位置することになる。
要約②本を読むのは良いことなのか?
とはいえ、できる限りある「本を読んだ」状態に近づくことが理想だと思われがちだが、トレードオフを考えるとそうでもない。
どんなに熱心な読書家においても、ある本を手に取り、それを開くということは、それとは別の本を手に取らず、聞きもしないということと同時的である。 27p
また、本にのめりこみすぎることにも弊害がある。
「書物内容のディテールに迷い込んで自分を見失う」 279p
つまり、本を読むことは必ずしも良いこととは限らない。
では、どうすればいいのか。
要約③3つの図書館と、3つの書物
<共有図書館>
ある時点で、ある文化の方向性を決定づけている一連の重要書の全体 35p
教養とは、書物を<共有図書館>のなかに位置づける能力であると同時に、個々の書物の内部で自己の位置を知る能力である。 66p
*個々の書物の内部で自己の位置を知る能力:個々の書物の全体像をつかむ力?
<内なる図書館>
三つの<図書館>のうちの<共有図書館>につづく二つ目のもので、個々の読書主体に影響を及ぼした書物からなる、<共有図書館>の主観的部分である。 123p
それにもとづいてあらゆる人格が形成されるとともに、書物や他人との関係も規程される。 121p
<ヴァーチャル図書館>
書物について口頭ないし文書で他人と語り合う空間である。これは各文化の<共有図書館>の可動部分であって、語り合うものそれぞれの<内なる図書館>が出会う場に位置している。 195p
<遮蔽幕(スクリーン)としての書物>
われわれが話題にする書物は、「現実の」書物とはほとんど関係がない。それは多くの場合<遮蔽幕としての書物>でしかない。 84p
われわれの書物についての言説の大部分は、じつは書物について発せられた他の言説に関するものであり、これもまたさらに別の言説に関するものであって、この連鎖には際限がない。 86p
<内なる書物>
本書で扱う三種の<書物>のうちの二番目のもので、われわれが書物に変形を加え、それを<遮蔽幕としての書物>にするさいの影響源となるものである。 137p
新しいテクストの受容にさいしてフィルターの役割を果たし、テクストのどの要素を取り上げ、それをどのように解釈するかを決定する。 136p
<幻影としての書物>
これは、われわれがある書物について話したり書いたりする時に立ち現れる、あの変わりやすく捉え難い対象のことである。<幻影としての書物>は、読書が自らの<内なる書物>を出発点として構築する様々な<遮蔽幕としての書物>同士の出会いの場に出現する 。 241p
整理すると、
ある文化のある時点での重要書が収容されているのが<共有図書館>で、そこにある書物が<遮蔽幕としての書物>だが実体があるわけではない。
個人の内面を規定する主観的なものが<内なる図書館>で、そこに属する<内なる書物>が新たな書物を読むうえでフィルターの機能を果たす。
他者との対話の際に生まれるのが<ヴァーチャル図書館>で、そこで対話の対象となっているのは<幻影としての書物>である。
↓対応表(241pの記載を元に作成)
要約④本を触媒に、創造(自分語り)を行う
著者は本書を通じて創造の重要性を伝えたかったとのこと。
重要なのは書物についてではなく自分自身について語ること、あるいは書物をつうじて自分自身について語ることである 264p
みずから創作者になること—本書で私が一連の例を引きながら確認してきたことが全体としてわれわれを導く先は、この企てにほかならない。
というのも、読んでいない本について語ることはまぎれもない創造の活動なのである。 269p
本について語るとき、本は触媒の役割を果たす。
そして、(読んだ本と読んでいない本の境界の不明瞭さ、本を読むことのピットフォールなどを考慮すると)、読んでいない本であっても、臆することなく創造を行ってよいのである。
感想
普段左脳ばかり使っていて右脳を有効活用できてない僕としては、今まさに行っている読書ログ活動も創造的なクリエィティブな活動だと言ってもらえて励みになった。
そして、引用文を使ったりしてできるだけ客観性を持たせようとしても、切り取り方や引用した上での要約方法などはやはり僕の主観であって、読書ログは<内なる書物>の執筆作業なんだと思った。
読書ログを書く本はそれなりにしっかり「読んだ本」であることが多かったけど、「読んでいない本」寄りの本であっても、臆することなく創造していきたい。
あと、(位置づけや全体像を把握するだけの)読まない読書も、(細部にこだわる)読む読書も、その時々に応じて楽しみながら読書ができるといいなと思った。