家庭医療専門医の勉強記録

医学・非医学問わず、学んだことを投稿しています。内容の間違いなどありましたらご指摘ください。また、内容の二次利用については自己責任でお願いします。

痛みをもって痛みを制す/共感性の欠如とその構造【誰がために医師はいる――クスリとヒトの現代論】

 

本書は、依存症治療に長く携わってきた精神科医である著者がその自身の経験を記した本である。

薬物依存症を診た経験はないが、アルコール・ニコチン・ベンゾジアゼピン睡眠薬)依存症は診ない日はほぼなく、興味深く拝見した。

とはいえ、専門用語は殆ど出てこないし、対人援助職の方や、人間理解に興味のある方には、是非一読をおすすめしたい。

著者が本書で主張したいことは、あとがきに端的に記されている。
この世には、よい薬物も悪い薬物もない、あるのはよい使い方と悪い使い方だけ。そして、悪い使い方をする人は、何か他の困りごとがあるのだ——
(中略)
「困った人」は「困っている人」なのだ、と。だから、国が薬物対策としてすべきことは、法規制を増やして無用に犯罪者を作り出すことではない。薬物という「物」に耽溺せざるを得ない、痛みを抱えた「人」への支援こそが必要なのだ。 193p

以下、本書を読んで感じたことを
・痛みをもって痛みを制す
・共感性の欠如と、その構造的理解について
・その他
の3点に分けて書いてみる。

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痛みをもって痛みを制す

ともあれ、世の中には、生きるためには不健康さや痛みを必要とする人がいる――。 53p
薬物・アルコール・タバコなど、なぜ自ら毒を取り入れ不健康になろうとするのか。
それは、一時的に心の辛さが和らぐからである。
特に薬物依存症患者の多くは、虐待など過去に過酷な経験をしていることが多い。

ただ、「生きるために痛みが必要」なのは依存症者に限ったことではないと思う。
「暇と退屈の倫理学」では、このようなことが書かれている。
あらゆる経験は刺激(サリエンシー)であり、記憶の傷痕として脳に刻まれる。外的なサリエンシーが減ると、記憶の傷跡が活性化して、痛む。その痛みこそが、退屈である。 *ブログ作者要約
https://bc-liber.com/blogs/fd3bb7513954
 
 

リベロ

「人生なんてつまらない」と嘯く、冷めたあなたへ。【暇と退屈の...

こば
12/08 18:32
 

退屈をごまかすためには気晴らしや仕事が必要であり、ある意味で僕らはそれらに依存している。
 (進撃の巨人    17巻)
何度となく引用しているが、この進撃の巨人のセリフは、真理だと思う。

リストカットも同じような背景があると考えられる。
リストカットする子どもが切っているのは皮膚だけではない——彼らは、皮膚とともに意識のなかでつらい出来事の記憶、つらい感情の記憶を切り離している」 66p

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共感性の欠如と、その構造的理解について

少年鑑別所や少年院の子どもたちの多くが、自身の話をすると無視され、問答無用の暴力によって制圧され、嘘つきと疑われる経験をしていた。彼らの立場に寄り添って理解しようとすれば、そのような環境を生きのびるには、リストカットや薬物の乱用によって自身の心の痛みを麻痺させるしかなかったような気がする。しかし、そのようにして自身の心の痛みに鈍感になるなかで、いつしか他人の痛みにも鈍感となり、共感性が損なわれていってしまうようにも思われた。 65p 下線はブログ作者

”過酷な環境→薬物などで心の痛みを麻痺させる→他人の痛みにも鈍感に→共感性欠如→反社会的行動という流れ。
実在した連続殺人鬼も、不遇な生育環境で育ってきたものが多いらしい。
https://bc-liber.com/blogs/c50db43c4c5b
 
 

【死刑にいたる病】「邪悪」を節制する自制心

こば
07/30 15:16
 

この構図は、人間という種において、再現性のある現象なのかもしれない。


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その他

既にブログが長くなってしまったので、あとは印象的だった部分を幾つかピックアップして終えようと思う。

中学時代、シンナーを吸引していた同級生の大半は、卒業までにはシンナーをやめていて、その後も薬物とは縁のない人生を送っている。 21p
薬物は「ダメ。ゼッタイ。」の標語でよく知られるように、一度でも暴露すると二度と元には戻れないというような言説で脅迫的に語られがちだが、事実はそうではない、と。
過剰な規制・脅しは、かえって逆効果になってしまう。本書で繰り返し語られているポイントの一つである。

絶望をあえて誰かに伝える、という矛盾した行為そのものが、「人とのつながり」を求める気持ちの表れとはいえまいか? それが仄見えるからこそ、一部の人間は善意から手を差し伸べるわけだが、アディクションという病には一筋縄ではいかないところがある。気づくと、嵐に巻き込まれ、蟻地獄に引きずりこまれているのだ。 22p
「患者と近しすぎるのは良くない。適切な距離感を保たなければならない。」と昔の指導医から習ったことを思い出した。納得できる部分もある反面、医師患者関係も突き詰めれば人間関係なのだから接していれば様々な感情は生じるし、多かれ少なかれ蟻地獄に足を踏み入れているんじゃないかとも思う。ただ、そこに対して自覚的に俯瞰的に観る姿勢は大事であり、それも人間関係全般に言えることなのでは。

説教や叱責といったものは、それこそ彼の周囲にいる素人の人たちが無償でやっていることだ。それと同じものを、いやしくも国家資格を持つ専門家が有償で提供してはいけない。 28p
依存症患者に対して説教叱責はしたことがないし、できるだけ陰性感情には気を付けている。丁寧にお話を聞くだけで「説教されなかったのは初めてです」と言われることすらある。
それを無償・素人/有償・プロという軸で語る視点は新鮮だった。

ミーティングでは過去の自分と出会い直すことができるのです。 34p
以前調べたことがあるが、残念ながら僕が臨床しているところでは、近くにアルコールアノニマス、断酒会などの自助グループは存在しなかった。医療従事者がどんなにフラットに接しようと思っても、仲間と語りあい励まし合う場の方が何倍も有効であるというのは、肌感覚としてはよくわかる気がする。
自助グループが機能的である理由を「新メンバーで過去の自分と出会い直し、古参メンバーで未来の自分と出会う」ことである、という説明は非常に腑に落ちた。

薬物依存症者にとって、薬物を手放すことは一種の喪失体験—長年連れ添った伴侶との別離にも似ています—でもあるのです。 35p
薬物は、ある意味で苦楽を共にした伴侶である。

ご婦人の「手のかからなさ」とは、実は、援助希求性の乏しさや、人間一般に対する信頼感、期待感のなさと表裏一体のものであった、ということだった。 169p
手のかからない人は、「人に依存できない」人。
そして「人に依存できない」人は、物に依存する。

何も処方しないと、「薬を出してもらえないのですか」と、不服そうな顔をされることもまれではない。その顔にはしばしば、特効薬という魔術的なものへの期待が見え隠れする。 171p
全ての医師が激しく同意しそう。でも、「特効薬幻想」は自分の中にもある気がしていて、現在漢方に傾倒している。

しらふは縮め、分離し、そして否(ノー) という機能があり、一方、酩酊には広げ、統合し、そして諾(イエス) という機能がある。アルコールは人間の応諾機能の大きな推進力なのである。 186p
著者も「あらゆる薬物のなかでもっとも心身の健康被害が深刻なのは、まちがいなくアルコールである(109p)」と語っているが、そのアルコールがなぜここまで人類に普及したのか?という説明の一つがコレ。
私はアルコールをほぼ飲まないので、「酒造会社の利益の犠牲者なんだろうな・・・タバコみたいに酒税も上がれば犠牲者は減るのだろうか?」とアルコール依存症を見るたびに思っていたが、この説明を見て人類はアルコール依存症と決別することはできないんだろうなと思った。