家庭医療専門医の勉強記録

医学・非医学問わず、学んだことを投稿しています。内容の間違いなどありましたらご指摘ください。また、内容の二次利用については自己責任でお願いします。

サッカーボールの上に乗った卵のように【違和感から始まる社会学 日常性のフィールドワークへの招待】

 
 

社会学というジャンルに興味を持ち、読んでみた本。
筆者の問題意識はこのように語られている。
私が問題としたいのは、
①「生きる」意味をつきつめる必要のない「日常」を、私たちは普段、どのように生きているのだろうか、
②そのように「日常」を生きること自体がどういう営みなのだろうか、
③私たちが「日常」にどのようなまなざしを向ければ、よりおもしろく生きることができるのだろうか、ということなのである。    23p

入院患者は、なぜ家に帰りたいのか?という問いに対して、ロールモデルのDrの一人である先生がこのような方をおっしゃっていた。(うろ覚えだが)
「家に帰りたいのに理由なんていらない。家で過ごすのが、その人の日常だからだ。」


「自分はなぜ生きるのか?」「生きることに意味はあるのか?」
などと哲学的に問うと、大抵袋小路にハマってしまう。

それよりも、
「自分が生きている”日常”はどのように成り立っているのか?」
と目を向けることは、贈与論的にも有用な視点なように思う。
https://bc-liber.com/blogs/06c097ec60c3
 
 

signに気づき、signを出そう:「世界は贈与でできている...

こば
09/11 14:16
 

日常とは、サッカーボールの上に乗った卵のように不安定なつり合いであり、危ういバランスの上に成り立っている。

そのことを改めて考えるきっかけとなった本でした。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(以下、メモ)

シュッツの日常生活世界論

「いま、ここ」が至高の現実として最も重要。その構成要素を考える。

■先人たちの世界
いま、ここに至るまでの先人たちの蓄積。
硬直した解釈よりも、多様な解釈の可能性に開かれるべき。

■彼らの世界
現在は、直接的な現前の世界から「彼らの世界」までグラデーションになっている。
同じ現在でも、より出会う頻度が少なかったり、関係性が薄かったり、より匿名的な人たち。

■同時代人の世界
自分が死ぬまでに一度も会うことのない、その意味でまったく匿名的な存在が生きている世界。
「彼らの世界」や「同時代人の世界」を理解しようとするとき、私たちは「類型的な知」を用いる。

■未来を生きるであろう人びとの世界
まだ生まれていない世代や、子ども世代。

「あたりまえ」の執拗さと恣意性

たとえば、大学生に、家で下宿人のようにふるまうように指示を出す。
出された食事を大げさにほめ、低姿勢でおかわりを要求する。
親は普段と違う子どもの様子に困惑し、具合でも悪いのかと心配するが、大学の課題なのだと説明すると、「そんなくだらないことやっているのか。さっさと食べなさい」と返す。そうして、ほんのわずかな間攪乱された食卓の「日常」が一気に回復し、家族の「あたりまえ」が維持されていく。

このように、何気ない食事の光景であっても、普段の学生自身のふるまい・親のふるまいなど、「あたりまえ」を維持するための方法的実践によってつくりあげられている。
強固になった「あたりまえ」は、つねに反復されていることが気づかれないほどに安定し、執拗な現実として私たちの「日常」を構成していくのである。    82p

一方で、「あたりまえ」を維持している秩序は、常にその意味が変容する可能性を持った恣意的な現象でもある。

私は新幹線通勤をしている。大抵朝は空いていて前後左右の席がガラガラなことも多い。同じ時間にいつも乗っている「乗客仲間」は、お互い距離をとって座っている。
ところが、時にそうでない乗客が乗ってくることがある。
あるとき、私が2Aに座っていたら、後から乗ってきた人が2Cに座ったのだ。ほかはガラガラなのにである。

自分のパーソナルスペースを害されたような気分になって、結局私の方が移動した。
その方は急いでいる雰囲気だったので、出口に近い席に適当に座ったのだろうと想像するが、「もう少し周りに配慮できないものか」と思ってしまった。

「新幹線車内では他人とはできるだけ距離をとって座る」というのが私にとっては「あたりまえ」だったが、それは少しも普遍的ではなく、その方にとっては「あたりまえ」ではない恣意的な現象だったといえるかもしれない。