家庭医療専門医の勉強記録

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他者としての体・他人【日本哲学の最前線③】

ブログ3回目。




 

4.手の倫理:伊藤亜紗


「手の倫理」も以前、ブログにしている。



山口は、伊藤の哲学を「他者性の倫理」と呼ぶ。
これは≪他者が自己へ入り込む余地を除き去らないこと≫(111p)である。

まず、前著の「記憶する体」について。
人間の体は完全には思い通りにならない。そんな体と何とか付き合っていくために、人間は何らかの(仮の)法則を見出して対処する。
例えば僕は、あまり眠るのが”得意”ではない。
寝付きもさほど良くないし、途中で何回か目が覚めることもしばしばだ。
寝る前にリラクゼーション法を試したり、パソコンやスマホをいじらないようにしたり、横になっても寝付けなかったらいったん床を離れたり、と現在の睡眠科学で良いとされていることを試したが、どれもいまいちだった。
現在は、podcastやvoicy, youtubeなどを聞き流しながらボーっとして、眠れそうだなと思ったら止めて・・・というやり方が今までよりはマシなのでそうしている。


体の在り方(ローカル・ルール)は個人の経験のパターンを規定し、それと共に記憶の在り方も規程する。そしてローカル・ルールは固定されたものではなく、変化しうる。
例えば「家族のことを思い出してください」と言われたら、私は真っ先に妻や息子の顔を思い出す。それと共に声や、触ったときの触覚のイメージなんかも思い出せるが、味覚や嗅覚にまつわる記憶はあまり出てこない。
現在は視覚優位の記憶だが、仮にもし失明するようなことがあれば、思い出し方のパターンも変わるだろう。



このように、思い通りにならない「他者としての体」との関係について考察したのが「記憶する体」で、思い通りにならない「他者としての他人」との関係について触覚の観点から考察したのが「手の倫理」である。
詳細は前ブログに書いたので省略

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山口の「自由のための不自由論」という着想に回収するなら、
思い通りにならない(=不自由な)他者としての体・他人について考察することで、より良い(=自由な)付き合い方を模索することができる、と言えるかもしれない。