家庭医療専門医の勉強記録

医学・非医学問わず、学んだことを投稿しています。内容の間違いなどありましたらご指摘ください。また、内容の二次利用については自己責任でお願いします。

【ある行旅死亡人の物語】

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2020年4月。兵庫県尼崎市のとあるアパートで、女性が孤独死した。 
現金3400万円、星形マークのペンダント、数十枚の写真、珍しい姓を刻んだ印鑑鑑......。   
記者二人が、残されたわずかな手がかりをもとに、身元調査に乗り出す。舞台は尼崎  
から広島へ。たどり着いた地で記者たちが見つけた「千津子さん」の真実とは? 
行旅死亡人」が本当の名前と半生を取り戻すまでを描いた圧倒的ノンフィクション。

(内容紹介より)

 

事実は小説より奇なり、を地で行くノンフィクション。

面白すぎて一気読みしたノンフィクションは初めて。

 

以下雑感。

 

ハイライト | 位置: 1,215
それでも今、私は死者について知ろうとしている。知りたいと思う。 〝死〟というゆるぎない事実の上に、かつてそこに確実に存在した生の輪郭を少しずつ拾い、結び、なぞること。それは、誰もが一度きりしかない人生の、そのかけがえのなさに触れることだ。

私は医師なので、故人その人自体に関わることは多くないが、遺族の方に関わることは少なくない。

遺族の方が、故人のことを物語ること、そこにもかけがえのなさを感じる。

 

ハイライト | 位置: 1,894
彼女とこの世界をつなぎとめる 紐帯 が、この五文字なのだ。

五文字とは「彼女」の名前のこと。

仕事の場で、時々名前を間違えられることがある。笑って対応するようにしているが、でもなんとなくモヤモヤとするのは、それだけアイデンティティに近いからなのかもしれない。

 

 

レベルアップ欲。【遊びと人間】

なぜ人間は遊ぶのか。人は夢、詩、神話とともに、遊びによって超現実の世界を創る。現代フランスの代表的知識人といわれるカイヨワは、遊びの独自の価値を理性の光に照らすことで、より豊かになると考え、非合理も最も合理的に語ってみせる。彼は、遊びのすべてに通じる不変の性質として競争・運・模擬・眩暈を提示し、これを基点に文化の発達を考察した。遊びの純粋な像を描き出した遊戯論の名著。
(書籍紹介より)

ホモ・ルーデンスが1938年に発表され、その20年後に発表された本。


ホモ・ルーデンスを高く評価しつつも、より発展的に考察している。

特に遊びの4分類は、現在も参照されるほど「遊びの研究」において大きな業績だったようである。
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◯遊びの定義

(一)自由な活動。すなわち、遊戯者が強制されないこと。もし強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。           
(二)隔離された活動。すなわち、あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。           
(三)未確定の活動。すなわち、ゲーム展開が決定されていたり、先に結果が分かっていたりしてはならない。創意の必要があるのだから、ある種の自由がかならず遊戯者の側に残されていなくてはならない。           
(四)非生産的活動。すなわち、財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。      
(五)規則のある活動。すなわち、約束ごとに従う活動。この約束ごとは通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが通用する。           
(六)虚構の活動。すなわち、日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。        37p

乱暴に短くまとめると、
「何者にも強制されず、日常生活と隔離された虚構の中で、結果が未確定で、財や富を生み出さず、何らかのルールがある活動」
という感じだろうか。

◯分類


(346p)

競争:アゴンAgôn 

競争、すなわち闘争だが、そこでは人為的に平等のチャンスが与えられており、争う者同士は、勝利者の勝利に明確で疑問の余地のない価値を与えうる理想的条件のもとで対抗することになる。    43p
スポーツがわかりやすい。

チャンスの平等が重要であり、遊戯者の能力に差がある時はハンディキャップを設けることもある。
自分の優秀性を認められたい、という欲望・意志が原動力になる。

運:アレアAlea

アゴンとは正反対に、遊戯者の力の及ばぬ独立の決定の上に成りたつすべての遊びを示すために、私はこの言葉を借用した。ここでは、相手に勝つよりも運命に勝つことの方がはるかに問題なのだ。言いかえれば、運命こそ勝利を作り出す唯一の存在であり、相手のある場合には、勝者は敗者より運に恵まれていたというだけのことだ。    47p
アレアとは、ラテン語さいころの遊びを意味する。
具体例としては、さいころ、ルーレットなど。

重要なのは、利益とリスクとのバランスである。
アレアでは、意志を放棄し、運命に身を委ねる。そして、そこでは個人の優越性は放棄される。
アレアの役目は、賢者に金を儲けさせることではなく、全く反対に、先天的あるいは後天的な個人の優越を破棄し、各自を絶対的に平等な者としてチャンスの盲目的な評決の前に立たせることだからである。    49p

アゴンとアレアは、一見正反対のようだが、どちらも
「現実にはありえない純粋に平等な条件を、遊戯者間に人為的に作り出す(50p)」
というルールを採用している。

アゴンとアレアは、混沌とした日常生活から離れ、ルールにより完璧な状態を計算し作り出そうとする試みである。

模擬ミミクリMimicry

すなわち、人が自分を自分以外の何かであると信じたり、自分に信じこませたり、あるいは他人に信じさせたりして遊ぶ、という事実にこれはもとづいている。その人格を一時的に忘れ、偽装し、捨て去り、別の人格をよそおう。私はこうした形をとる遊びをミミクリという言葉で表わしたい。    51p
具体例としては、ごっこ遊びだろうか。

ミミクリにおいてルールらしいルールはない(脱ルール)。
あるとすればただ一つ、演技者にとっては見物人を魅惑すること、見物人にとっては幻覚に身を委ねること、である。

眩暈イリンクスIlinx

イリンクス(Ilinx) ──遊びの最後の種類にふくまれるのは、 眩暈 の追求にもとづくもろもろの遊びである。それらは、一時的に知覚の安定を破壊し、 明晰 であるはずの意識をいわば官能的なパニック状態におとしいれようとするものである。  56p
ラテン語で、渦巻の意味。
グルグルバット、滑り台、ブランコなど。


◯遊戯パイディアPaidia と 競技ルドゥスLudus

遊びには2つの極がある。

パイディアは、遊びの根源にある自由である。
動きたい騒ぎたいという基本的な欲求。
遊びの本能の自発的な現われ(64p)。
気晴らし、即興、無邪気な発散、統制されていない気紛れ。
赤ちゃんがガラガラを手にとって遊んだり、犬が自分の尻尾を追いかけてぐるぐる動いたり、など。

ルドゥスは、無償の困難を求める嗜好(63p)である。
パイディアの自由を、あえて規則で縛り、困難を乗り越えることに快楽を見出す。
またこの段階から、故意に作り出され 恣意的に限定された困難──つまり、それをやりとげたからといって、解決しえたという内面的満足以外のいかなる利益をももたらさないような困難──を解決して味わう楽しみが、遊びの中に登場してくる。  
この原動力となるのが、まさにルドゥスなのだ。 66p
片足跳びをしたり、階段を一段とばしで登ったり。

ただ、ルドゥスだけだと物足らなさが残り、そこから更にアゴン・アレア・ミミクリ・イリンクスへと発展していく。


(77p)

◯遊びの社会性・堕落

遊びの定義にあるように、遊びは隔離された虚構の活動である。
一方、日常生活の中にも、制度的に組み込まれているものがある。
また、「遊びと日常生活が混じり合うようなことがあれば、遊びの本質そのものが堕落し、破滅する(85p)」こともある。
(前略)遊びの激しさが病的逸脱の原因でないことは注目すべきことである。それはつねに日常生活の汚染から生じたものである。遊びを支配する本能が、絶対的な規約を前提としてもたずに、時間と場所のきびしい限界の外にひろがるところに、こうした逸脱がおこるのである。 94p


(102p)

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遊びの4分類は本当にMECEなのか?
具体例で色々考えてみる。

RPGゲーム
4つが入り混じってる?

・ピアノ
4分類というよりはパイディア・ルドゥスかな。
コンクールに出るならアゴンもプラスされる。

youtubeやテレビ視聴
パイディアだけ?受動的だと「遊び」とは言い難いのかも。

・ランニング
誰かと競ってるつもりはないから、パイディア・ルドゥス的。
大会に出ればアゴン。

どうも、全体的にルドゥス的要素が今の自分の好みな気がする。
レベルアップしていく感が得られると楽しい。
仕事に於いてもそれが原動力の一つになってる。


この本を読もうと思ったのは、退屈のことを考えて、退屈しのぎ→すなわち遊び?と思ったから。
今後何か考えるときの思考のフックになる気がする。


思考の注意法【はじめての哲学的思考】




最近哲学的な本を読むブームが、自分の中で再度到来している感覚がある。
でもこの本でいったん一区切りにして、別のジャンルの本を読もう。



本書の著者の苫野氏は、上記ブログで紹介した竹田氏の弟子に当たる。
だからというか、哲学的な部分での主張はかなり近い。

絶対的な独断論でも相対主義でもなく、
疑いようのない内在的知覚と、それから来る超越的知覚(確信)を元に、
(訂正可能性を持ちつつも)共同的な普遍了解を目指す
のが哲学として重要だ

と要約できるかと思う。

ちなみに、似たような問題意識は別の著者でも見られる。




これはこれで読んでいて面白かったけど、元々思考法(議論の場などにおける注意点)の話が知りたくて読んだので、そちらの要約を記す。

N=1であることの謙虚さを忘れない

本書では「一般化のワナ」に注意、と書いてある。
=自分の経験を過度に一般化しない、ということ。
経験はもちろん大事だが、N=1に過ぎないのだから、そこへの謙虚さを忘れない。

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「問い方のマジック」に引っかからない

「問い方のマジック」とは、二項対立的な問いのこと。
Q.教育は子どもの幸せのためにあるのか?    それとも、国家を存続・発展させるためにあるのか?    53p
これだと、どちらかが正しいかのような錯覚に陥りやすい。

Q.教育は、どのような意味において子どもたちのためにあり、またどのような意味において国や社会のためにあるのか?    54p
これであれば、一定の共通了解にたどり着ける可能性がある。

帰謬法に対処する

帰謬法とは何か?
ひと言でいうなら、相手の主張の矛盾や例外を見つけ出し、そこをひたすら攻撃・反論しつづける論法だ。    60p
 
「あなたのいっていることは絶対に正しいといえるの?    それって絶対なの?    ぜぇぇぇったいなの?」    63p

どんな主張でも、言葉の上では必ず何らかの矛盾を指摘することができる。
だから論理的に考えるうえでは必要な作業ではあるのだが、これを議論で相手を言い負かすための論法として使う人がいるので注意が必要である。

例:人それぞれ
「人には優しくすべき」
→「優しくされて迷惑な人だっている」

例:時と場合による
「人には優しくすべき」
→「優しくされるのが嫌なときだってある」

例:人間以外にはそうは見えない
「カラスは黒い」
→「別の生き物が見たら黒には見えないかもしれない」

これらは、すべて議論を「真か偽か」に持ち込むやり方であり、実は「問い方のマジック」の一種である。

さて、それにどう対処するか。

それは、内在的知覚や超越的知覚のレベルまで話を戻すことである。
先の例「カラスは黒い」で言えば、「カラスは黒い」は疑いの余地があるけれど、「僕にはカラスが黒く見えてしまう」は疑いの余地がない。

だから、
「僕にはカラスが黒く見えてしまう」けれど、あなたはどうですか?
と聞けば、建設的な議論ができる。
Q.    これがわたしの”確信”。ではあなたはどうですか?    76p
 

贈る言葉【野の医者は笑う―心の治療とは何か?― 】

ふとしたきっかけから怪しいヒーラーの世界に触れた若き臨床心理士は、「心の治療とは何か」を問うために、彼らの話を聴き、実際に治療を受けて回る。次から次へと現れる不思議な治療! そしてなんと自身の人生も苦境に陥る……。それでも好奇心は怪しい世界の深奥へと著者を誘っていく。武器はユーモアと医療人類学。冒険の果てに見出された心の治療の本性とはなんだったのか。
「心が病むってどういうことか」「心の治療者とは何者か」そして「心が癒やされるとはどういうことか」底抜けに楽しく、そしてほろりとくるアカデコミカル・ノンフィクション!

文庫版古いバージョンをkindleで買い、何年か前に読んだ。
最近医療の周縁の本を色々読んでいて、再読することに。

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要約


人を癒やすヒーラーである野の医者は、自らも傷ついた経験がある。
癒す人と癒やされる人は相補的である。
私はこの頃になってようやく、野の医者とは傷ついた治療者であると同時に、癒やす病者なのだということがわかってきた。これは大きな発見だった。つまり、彼らはまだ癒やされている途上にある病者なのだ。と言うか、癒やす人と癒やされる人は深く繋がっている。 kindle位置2024

一方、科学の発展は、治療者と病者を一方的な関係として分断する。
おそらく、科学的な医学によって初めて、癒やす人と病む人、治療者と病者が別々のものになったのだろう。科学は混沌としたものを分けて、分離していくものだ。そうやって、科学は近代社会の治療者を専門職として、病者から分けていったのだ。 kindle位置2034

また、心の治療とは、 クライエントをそれぞれの治療法の価値観へと巻き込んでいく営みである、と語られる。
精神分析なら悲しみを悲しめるようになること、ユング心理学ならその人が生きてこなかった自己を生きていくこと、人間性心理学なら本当の自分になっていくこと、認知行動療法なら非合理な信念を捨て去り生きていくこと、マインドブロックバスターならマーケティングにさとく経済的に独立して生きていくこと、X氏なら軽い躁状態になって素早く起き上がること。
治療の種類によって、何が治癒であるかが違うのだ。 kindle位置3856

つまり、野の医者は自らも傷ついた経験があり治療で癒やされた経験があるが故に、その治療法の価値観でもって病者を癒そうとする。(傷ついた経験のない、科学的に治療を学んだ医師や心理士等は、必ずしもそうではない)

贈る言葉


別に世代ではないのだが、有名な歌である。
歌詞に、こんな台詞がある。
人は悲しみが多いほど 人には優しくできるのだから

傷ついた人の方が、人を癒やすことができるのだ、と。

僕自身も若い頃、それなりに悩みを持ち、傷ついてきた。(端から見れば比較的恵まれた暮らしをしてたとは思うが)
そうした経験は、もしかしたら傷ついた人と接する時に生きているのかもしれない。

ふつうの相談における価値観は?



本書は「ふつうの相談」よりも数年前に書かれた本なので、ふつうの相談についての考察は当然含まれていない。

上記ブログで、ふつうの相談0について以下のように記載した。
ふつうの相談0は、民間セクターで行われるケアである。熟知性を通じて相手を知り、世間知を説明モデルとすることで相手を理解し対応する。このとき相手の苦悩は個人症候群のレベルで取り扱われる。

ふつうの相談0においては、世間知が説明モデルとなり、価値観となる。
つまり、その世間における「良い生き方」を規範とすることになる。


翻って、僕が普段の診療で行っている「ふつうの相談」はどのような生き方を規範としているのか?を考えると、「相手が望む生き方・価値観を最大限尊重すること」を規範にしている気がする。
(ふつうの相談に限らないが)

うつ病の人が職務復帰を希望していれば、「まずは毎日1時間外出できることを目指す」、などの方策を考える。
・高齢者の肺炎で、負担の少ない範囲での検査治療を希望しているなら、「心肺停止時に蘇生行為は行わないが、点滴治療は行うし場合によっては入院加療も検討する」、などと考える。

やまい(病気)とは【医療とは何か ---現場で根本問題を解きほぐす】


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「哲学とは何か」の中で紹介されてた書籍。



本書のタイトルは、「医療とは何か」であり、実際に医療についての様々な思索が展開される。
本書では、医療を「納得を確かめ合う言語ゲーム」の一類型として捉える(182p)。

その具体例も医療従事者である私としては確かにとそうだなと思わされるものだったが、昨今流行りの「Shared decision making」と大筋は変わらないとも感じた。
現象学的に「客観的な診断」なるものを否定しているところが主な違い)

それよりも、本書前半で書かれていた病気についての考え方の方が興味深かったので、そちらを要約してみることにする。

病気とは

筆者によると、病気は3つの要素からなる(39p)
①身体の不都合
②不条理感
③自己了解の変様の要請
この場合の病気というのは、患者本人が身体の不都合をどう経験しているか(家庭医療学の用語で「やまい」)、という意味であり、必ずしも医学的な診断としての病気(=「疾患」)とはイコールではない。

①身体の不都合
本書では精神疾患については触れられてないが、精神疾患でも身体的な症状は出現する。
むしろそうした身体的な不調を一切伴わない精神疾患はないようにすら思う。
例えば、うつ病患者は「何かをやろうとしても体がついてこない」感じを経験することが多い。
なので、上記の筆者による病気の定義は精神疾患も包摂していると考えて良いと思う。

②不条理感
不条理という言葉の説明は本書にはなかったが、文脈的には「納得できない、受け入れられない」と言い換えてよさそう。
何らかの身体の不都合があっても、不条理感を感じなければ、その人にとってそれは病気ではない。
例えば急にお腹が痛くなっても、「食べすぎたせいかな」と思えばその人にとっては病気ではない。「これはおかしい」と思えばその人にとっては病気である。
ただ、「食べ過ぎ」の腹痛と思っても薬が欲しい・念の為などの理由で病院を受診する人も少なくない。特段重篤な疾患を疑う兆候がなければ、「急性胃炎疑い」などと疾患の病名をつけられることになる。

③自己了解の変様の要請
自己了解というのは過去から未来にかけての自分の物語のこと。
筆者によれば、「病気」はそうした物語の変更を強いるものである。(その程度は様々)
インフルエンザで楽しみにしてた修学旅行にいけなくなった高校生は、③を経験している。
100歳の寝たきりの高齢者に肺癌が見つかっても、特に症状もなく不安もなく治療も行わないのであれば③は経験しないかもしれない。


考察①:慢性疾患は?

筆者が救急医というバックグラウンドを持つ影響もあってか、この病気の定義は、主に急性疾患や重篤な疾患が念頭に置かれているように思う。
なので、それ以外の疾患についても検討してみる。

例えば、高血圧。
基本的に血圧が高くても無症状であり、本人にとっては血圧の数値上だけでの病気である。この病気は、大きく3種類に大別されると思う。

◯病識がなく放置している人:①~③いずれもない
特に身体面の不調も感じず(多少あっても血圧と結び付けず)、特に気にしない。
(医学的には疾患だが)本書でいうところの病気ではない。
この人はそもそも受診しないか、(会社や家族などの)外圧によりやむを得ず受診するだけで、治療にスムーズに移行することはあまりない。

◯それなりに納得し、上手く対処している人:ほぼ③のみ
血圧の薬をきちんと飲み、運動や食事にも気を使うから、③は経ている。
しかし①はなく、疾患理解も良好で②はほぼ感じていない。

◯非常に不安が大きい人:①~③すべてあり
めまい、頭痛、肩こりなどちょっとした症状をすべて血圧に結びつけ、不安を増大させる。1日に何回も血圧を測定しないと気がすまない。

このように考えると、本書の考える病気の射程は思った以上に広く、「やまい」について考えるうえで重要な示唆があるように思った。

考察②:FIFEとの比較

家庭医療学の分野では、本書における病気を「やまいIllness」と呼ぶ。
やまいを具体的に検討する上で、4つの要素の頭文字をとって「FIFE」「かきかえ」というものがある。

Feeling感情:どのように感じているのか
Idea解釈:病気の原因やメカニズム、悪化や改善要因などについての考え
Function影響:どのような影響があるのか
Expectation期待:ケアの提供者に対してどんなことを希望するか

これと、本書の病気の3要素を比べてみる。

①身体の不都合
これは主にFunctionだろうか。咳がひどくて仕事に支障が出る、肌荒れが恥ずかしくてプールに入りたくない、など。

②不条理感
これはFeelingやIdeaと被る点がありそう。「なんでこんな病気になってしまったのか」とか「きっと悪い病気に違いない」とか考えていれば不条理感を感じている。

③自己了解の変様の要請
これは、強いて言えばFunctionだろうか。上の方に書いたインフルエンザや肺癌の例は、Functionの話をしている、と言えなくもない。

こう整理すると、本書の3要素にはExpectationは含まれてない。
とはいえ、Expectationはやまいそのものというよりは、ケアの提供者と向き合うときに出てくるものなので、本質的なやまいの要素というよりは派生的なものな気もする。

【哲学とは何か】

 
哲学者の業績を並び立てた本としての入門書ではなく、これから哲学をどう筋道立てて行くべきか、という意味での入門書。

認識の謎の解明が本書のキーだと思うので、その部分を要約。
メモ的に言語の謎についても載せた。

認識の謎


疑えないのは「内在的知覚」であり、「超越的知覚(確信)」はどこまでいっても疑うことはできる。
人それぞれの超越的知覚を言語化し、普遍的な共通了解を目指すことが、共同体を安定させ、ともに生きるために必要である。

それらの知覚は、欲望に相関する。(欲望-関心相関性の原理)
たとえばダニにとって人間は血を吸う欲望の対象でしかない。そのため(内在的)知覚するのは酪酸の臭いや体温だけである。
(本書には記載はないが、同じものを内在的知覚として与えられていても、超越的知覚が異なることもあると思われるので、例を出してみる)。例えば子どもの算数のテストが90点だったとして、父は「この程度のテストなら満点を取ってほしい」から「不甲斐ない結果」と確信し、母は「テストの結果なんて気にしすぎないで欲しい」から「頑張った結果」と確信する。

内在的知覚から超越的知覚に至る内的構造を洞察するのが、本質観取である。
優れた本質観取は、
①外的情報ではなく内的経験の内省に依拠し、
②類似した概念との違いを明確にする。

それにより、
③他者が内省によって検証し、更に普遍的な本質へと展開することができる。

言語の謎

言語ゲームにおいては、辞書的な言葉(一般意味)を媒介として、伝えたい意味(企投的意味)と、受け取った意味(了解的意味)が生じる。

だから、辞書的な意味だけで考えていると矛盾が生じるが、現実においてはそうはならない。(嘘つきのパラドックスなど)
「嘘つきのパラドックス」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書