家庭医療専門医の勉強記録

医学・非医学問わず、学んだことを投稿しています。内容の間違いなどありましたらご指摘ください。また、内容の二次利用については自己責任でお願いします。

レベルアップ欲。【遊びと人間】

なぜ人間は遊ぶのか。人は夢、詩、神話とともに、遊びによって超現実の世界を創る。現代フランスの代表的知識人といわれるカイヨワは、遊びの独自の価値を理性の光に照らすことで、より豊かになると考え、非合理も最も合理的に語ってみせる。彼は、遊びのすべてに通じる不変の性質として競争・運・模擬・眩暈を提示し、これを基点に文化の発達を考察した。遊びの純粋な像を描き出した遊戯論の名著。
(書籍紹介より)

ホモ・ルーデンスが1938年に発表され、その20年後に発表された本。


ホモ・ルーデンスを高く評価しつつも、より発展的に考察している。

特に遊びの4分類は、現在も参照されるほど「遊びの研究」において大きな業績だったようである。
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◯遊びの定義

(一)自由な活動。すなわち、遊戯者が強制されないこと。もし強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。           
(二)隔離された活動。すなわち、あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。           
(三)未確定の活動。すなわち、ゲーム展開が決定されていたり、先に結果が分かっていたりしてはならない。創意の必要があるのだから、ある種の自由がかならず遊戯者の側に残されていなくてはならない。           
(四)非生産的活動。すなわち、財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。      
(五)規則のある活動。すなわち、約束ごとに従う活動。この約束ごとは通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが通用する。           
(六)虚構の活動。すなわち、日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。        37p

乱暴に短くまとめると、
「何者にも強制されず、日常生活と隔離された虚構の中で、結果が未確定で、財や富を生み出さず、何らかのルールがある活動」
という感じだろうか。

◯分類


(346p)

競争:アゴンAgôn 

競争、すなわち闘争だが、そこでは人為的に平等のチャンスが与えられており、争う者同士は、勝利者の勝利に明確で疑問の余地のない価値を与えうる理想的条件のもとで対抗することになる。    43p
スポーツがわかりやすい。

チャンスの平等が重要であり、遊戯者の能力に差がある時はハンディキャップを設けることもある。
自分の優秀性を認められたい、という欲望・意志が原動力になる。

運:アレアAlea

アゴンとは正反対に、遊戯者の力の及ばぬ独立の決定の上に成りたつすべての遊びを示すために、私はこの言葉を借用した。ここでは、相手に勝つよりも運命に勝つことの方がはるかに問題なのだ。言いかえれば、運命こそ勝利を作り出す唯一の存在であり、相手のある場合には、勝者は敗者より運に恵まれていたというだけのことだ。    47p
アレアとは、ラテン語さいころの遊びを意味する。
具体例としては、さいころ、ルーレットなど。

重要なのは、利益とリスクとのバランスである。
アレアでは、意志を放棄し、運命に身を委ねる。そして、そこでは個人の優越性は放棄される。
アレアの役目は、賢者に金を儲けさせることではなく、全く反対に、先天的あるいは後天的な個人の優越を破棄し、各自を絶対的に平等な者としてチャンスの盲目的な評決の前に立たせることだからである。    49p

アゴンとアレアは、一見正反対のようだが、どちらも
「現実にはありえない純粋に平等な条件を、遊戯者間に人為的に作り出す(50p)」
というルールを採用している。

アゴンとアレアは、混沌とした日常生活から離れ、ルールにより完璧な状態を計算し作り出そうとする試みである。

模擬ミミクリMimicry

すなわち、人が自分を自分以外の何かであると信じたり、自分に信じこませたり、あるいは他人に信じさせたりして遊ぶ、という事実にこれはもとづいている。その人格を一時的に忘れ、偽装し、捨て去り、別の人格をよそおう。私はこうした形をとる遊びをミミクリという言葉で表わしたい。    51p
具体例としては、ごっこ遊びだろうか。

ミミクリにおいてルールらしいルールはない(脱ルール)。
あるとすればただ一つ、演技者にとっては見物人を魅惑すること、見物人にとっては幻覚に身を委ねること、である。

眩暈イリンクスIlinx

イリンクス(Ilinx) ──遊びの最後の種類にふくまれるのは、 眩暈 の追求にもとづくもろもろの遊びである。それらは、一時的に知覚の安定を破壊し、 明晰 であるはずの意識をいわば官能的なパニック状態におとしいれようとするものである。  56p
ラテン語で、渦巻の意味。
グルグルバット、滑り台、ブランコなど。


◯遊戯パイディアPaidia と 競技ルドゥスLudus

遊びには2つの極がある。

パイディアは、遊びの根源にある自由である。
動きたい騒ぎたいという基本的な欲求。
遊びの本能の自発的な現われ(64p)。
気晴らし、即興、無邪気な発散、統制されていない気紛れ。
赤ちゃんがガラガラを手にとって遊んだり、犬が自分の尻尾を追いかけてぐるぐる動いたり、など。

ルドゥスは、無償の困難を求める嗜好(63p)である。
パイディアの自由を、あえて規則で縛り、困難を乗り越えることに快楽を見出す。
またこの段階から、故意に作り出され 恣意的に限定された困難──つまり、それをやりとげたからといって、解決しえたという内面的満足以外のいかなる利益をももたらさないような困難──を解決して味わう楽しみが、遊びの中に登場してくる。  
この原動力となるのが、まさにルドゥスなのだ。 66p
片足跳びをしたり、階段を一段とばしで登ったり。

ただ、ルドゥスだけだと物足らなさが残り、そこから更にアゴン・アレア・ミミクリ・イリンクスへと発展していく。


(77p)

◯遊びの社会性・堕落

遊びの定義にあるように、遊びは隔離された虚構の活動である。
一方、日常生活の中にも、制度的に組み込まれているものがある。
また、「遊びと日常生活が混じり合うようなことがあれば、遊びの本質そのものが堕落し、破滅する(85p)」こともある。
(前略)遊びの激しさが病的逸脱の原因でないことは注目すべきことである。それはつねに日常生活の汚染から生じたものである。遊びを支配する本能が、絶対的な規約を前提としてもたずに、時間と場所のきびしい限界の外にひろがるところに、こうした逸脱がおこるのである。 94p


(102p)

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遊びの4分類は本当にMECEなのか?
具体例で色々考えてみる。

RPGゲーム
4つが入り混じってる?

・ピアノ
4分類というよりはパイディア・ルドゥスかな。
コンクールに出るならアゴンもプラスされる。

youtubeやテレビ視聴
パイディアだけ?受動的だと「遊び」とは言い難いのかも。

・ランニング
誰かと競ってるつもりはないから、パイディア・ルドゥス的。
大会に出ればアゴン。

どうも、全体的にルドゥス的要素が今の自分の好みな気がする。
レベルアップしていく感が得られると楽しい。
仕事に於いてもそれが原動力の一つになってる。


この本を読もうと思ったのは、退屈のことを考えて、退屈しのぎ→すなわち遊び?と思ったから。
今後何か考えるときの思考のフックになる気がする。


思考の注意法【はじめての哲学的思考】




最近哲学的な本を読むブームが、自分の中で再度到来している感覚がある。
でもこの本でいったん一区切りにして、別のジャンルの本を読もう。



本書の著者の苫野氏は、上記ブログで紹介した竹田氏の弟子に当たる。
だからというか、哲学的な部分での主張はかなり近い。

絶対的な独断論でも相対主義でもなく、
疑いようのない内在的知覚と、それから来る超越的知覚(確信)を元に、
(訂正可能性を持ちつつも)共同的な普遍了解を目指す
のが哲学として重要だ

と要約できるかと思う。

ちなみに、似たような問題意識は別の著者でも見られる。




これはこれで読んでいて面白かったけど、元々思考法(議論の場などにおける注意点)の話が知りたくて読んだので、そちらの要約を記す。

N=1であることの謙虚さを忘れない

本書では「一般化のワナ」に注意、と書いてある。
=自分の経験を過度に一般化しない、ということ。
経験はもちろん大事だが、N=1に過ぎないのだから、そこへの謙虚さを忘れない。

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「問い方のマジック」に引っかからない

「問い方のマジック」とは、二項対立的な問いのこと。
Q.教育は子どもの幸せのためにあるのか?    それとも、国家を存続・発展させるためにあるのか?    53p
これだと、どちらかが正しいかのような錯覚に陥りやすい。

Q.教育は、どのような意味において子どもたちのためにあり、またどのような意味において国や社会のためにあるのか?    54p
これであれば、一定の共通了解にたどり着ける可能性がある。

帰謬法に対処する

帰謬法とは何か?
ひと言でいうなら、相手の主張の矛盾や例外を見つけ出し、そこをひたすら攻撃・反論しつづける論法だ。    60p
 
「あなたのいっていることは絶対に正しいといえるの?    それって絶対なの?    ぜぇぇぇったいなの?」    63p

どんな主張でも、言葉の上では必ず何らかの矛盾を指摘することができる。
だから論理的に考えるうえでは必要な作業ではあるのだが、これを議論で相手を言い負かすための論法として使う人がいるので注意が必要である。

例:人それぞれ
「人には優しくすべき」
→「優しくされて迷惑な人だっている」

例:時と場合による
「人には優しくすべき」
→「優しくされるのが嫌なときだってある」

例:人間以外にはそうは見えない
「カラスは黒い」
→「別の生き物が見たら黒には見えないかもしれない」

これらは、すべて議論を「真か偽か」に持ち込むやり方であり、実は「問い方のマジック」の一種である。

さて、それにどう対処するか。

それは、内在的知覚や超越的知覚のレベルまで話を戻すことである。
先の例「カラスは黒い」で言えば、「カラスは黒い」は疑いの余地があるけれど、「僕にはカラスが黒く見えてしまう」は疑いの余地がない。

だから、
「僕にはカラスが黒く見えてしまう」けれど、あなたはどうですか?
と聞けば、建設的な議論ができる。
Q.    これがわたしの”確信”。ではあなたはどうですか?    76p
 

贈る言葉【野の医者は笑う―心の治療とは何か?― 】

ふとしたきっかけから怪しいヒーラーの世界に触れた若き臨床心理士は、「心の治療とは何か」を問うために、彼らの話を聴き、実際に治療を受けて回る。次から次へと現れる不思議な治療! そしてなんと自身の人生も苦境に陥る……。それでも好奇心は怪しい世界の深奥へと著者を誘っていく。武器はユーモアと医療人類学。冒険の果てに見出された心の治療の本性とはなんだったのか。
「心が病むってどういうことか」「心の治療者とは何者か」そして「心が癒やされるとはどういうことか」底抜けに楽しく、そしてほろりとくるアカデコミカル・ノンフィクション!

文庫版古いバージョンをkindleで買い、何年か前に読んだ。
最近医療の周縁の本を色々読んでいて、再読することに。

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要約


人を癒やすヒーラーである野の医者は、自らも傷ついた経験がある。
癒す人と癒やされる人は相補的である。
私はこの頃になってようやく、野の医者とは傷ついた治療者であると同時に、癒やす病者なのだということがわかってきた。これは大きな発見だった。つまり、彼らはまだ癒やされている途上にある病者なのだ。と言うか、癒やす人と癒やされる人は深く繋がっている。 kindle位置2024

一方、科学の発展は、治療者と病者を一方的な関係として分断する。
おそらく、科学的な医学によって初めて、癒やす人と病む人、治療者と病者が別々のものになったのだろう。科学は混沌としたものを分けて、分離していくものだ。そうやって、科学は近代社会の治療者を専門職として、病者から分けていったのだ。 kindle位置2034

また、心の治療とは、 クライエントをそれぞれの治療法の価値観へと巻き込んでいく営みである、と語られる。
精神分析なら悲しみを悲しめるようになること、ユング心理学ならその人が生きてこなかった自己を生きていくこと、人間性心理学なら本当の自分になっていくこと、認知行動療法なら非合理な信念を捨て去り生きていくこと、マインドブロックバスターならマーケティングにさとく経済的に独立して生きていくこと、X氏なら軽い躁状態になって素早く起き上がること。
治療の種類によって、何が治癒であるかが違うのだ。 kindle位置3856

つまり、野の医者は自らも傷ついた経験があり治療で癒やされた経験があるが故に、その治療法の価値観でもって病者を癒そうとする。(傷ついた経験のない、科学的に治療を学んだ医師や心理士等は、必ずしもそうではない)

贈る言葉


別に世代ではないのだが、有名な歌である。
歌詞に、こんな台詞がある。
人は悲しみが多いほど 人には優しくできるのだから

傷ついた人の方が、人を癒やすことができるのだ、と。

僕自身も若い頃、それなりに悩みを持ち、傷ついてきた。(端から見れば比較的恵まれた暮らしをしてたとは思うが)
そうした経験は、もしかしたら傷ついた人と接する時に生きているのかもしれない。

ふつうの相談における価値観は?



本書は「ふつうの相談」よりも数年前に書かれた本なので、ふつうの相談についての考察は当然含まれていない。

上記ブログで、ふつうの相談0について以下のように記載した。
ふつうの相談0は、民間セクターで行われるケアである。熟知性を通じて相手を知り、世間知を説明モデルとすることで相手を理解し対応する。このとき相手の苦悩は個人症候群のレベルで取り扱われる。

ふつうの相談0においては、世間知が説明モデルとなり、価値観となる。
つまり、その世間における「良い生き方」を規範とすることになる。


翻って、僕が普段の診療で行っている「ふつうの相談」はどのような生き方を規範としているのか?を考えると、「相手が望む生き方・価値観を最大限尊重すること」を規範にしている気がする。
(ふつうの相談に限らないが)

うつ病の人が職務復帰を希望していれば、「まずは毎日1時間外出できることを目指す」、などの方策を考える。
・高齢者の肺炎で、負担の少ない範囲での検査治療を希望しているなら、「心肺停止時に蘇生行為は行わないが、点滴治療は行うし場合によっては入院加療も検討する」、などと考える。

やまい(病気)とは【医療とは何か ---現場で根本問題を解きほぐす】


https://www.amazon.co.jp/dp/4309624472?tag=booklogjp-item-22&linkCode=ogi&th=1&psc=1


「哲学とは何か」の中で紹介されてた書籍。



本書のタイトルは、「医療とは何か」であり、実際に医療についての様々な思索が展開される。
本書では、医療を「納得を確かめ合う言語ゲーム」の一類型として捉える(182p)。

その具体例も医療従事者である私としては確かにとそうだなと思わされるものだったが、昨今流行りの「Shared decision making」と大筋は変わらないとも感じた。
現象学的に「客観的な診断」なるものを否定しているところが主な違い)

それよりも、本書前半で書かれていた病気についての考え方の方が興味深かったので、そちらを要約してみることにする。

病気とは

筆者によると、病気は3つの要素からなる(39p)
①身体の不都合
②不条理感
③自己了解の変様の要請
この場合の病気というのは、患者本人が身体の不都合をどう経験しているか(家庭医療学の用語で「やまい」)、という意味であり、必ずしも医学的な診断としての病気(=「疾患」)とはイコールではない。

①身体の不都合
本書では精神疾患については触れられてないが、精神疾患でも身体的な症状は出現する。
むしろそうした身体的な不調を一切伴わない精神疾患はないようにすら思う。
例えば、うつ病患者は「何かをやろうとしても体がついてこない」感じを経験することが多い。
なので、上記の筆者による病気の定義は精神疾患も包摂していると考えて良いと思う。

②不条理感
不条理という言葉の説明は本書にはなかったが、文脈的には「納得できない、受け入れられない」と言い換えてよさそう。
何らかの身体の不都合があっても、不条理感を感じなければ、その人にとってそれは病気ではない。
例えば急にお腹が痛くなっても、「食べすぎたせいかな」と思えばその人にとっては病気ではない。「これはおかしい」と思えばその人にとっては病気である。
ただ、「食べ過ぎ」の腹痛と思っても薬が欲しい・念の為などの理由で病院を受診する人も少なくない。特段重篤な疾患を疑う兆候がなければ、「急性胃炎疑い」などと疾患の病名をつけられることになる。

③自己了解の変様の要請
自己了解というのは過去から未来にかけての自分の物語のこと。
筆者によれば、「病気」はそうした物語の変更を強いるものである。(その程度は様々)
インフルエンザで楽しみにしてた修学旅行にいけなくなった高校生は、③を経験している。
100歳の寝たきりの高齢者に肺癌が見つかっても、特に症状もなく不安もなく治療も行わないのであれば③は経験しないかもしれない。


考察①:慢性疾患は?

筆者が救急医というバックグラウンドを持つ影響もあってか、この病気の定義は、主に急性疾患や重篤な疾患が念頭に置かれているように思う。
なので、それ以外の疾患についても検討してみる。

例えば、高血圧。
基本的に血圧が高くても無症状であり、本人にとっては血圧の数値上だけでの病気である。この病気は、大きく3種類に大別されると思う。

◯病識がなく放置している人:①~③いずれもない
特に身体面の不調も感じず(多少あっても血圧と結び付けず)、特に気にしない。
(医学的には疾患だが)本書でいうところの病気ではない。
この人はそもそも受診しないか、(会社や家族などの)外圧によりやむを得ず受診するだけで、治療にスムーズに移行することはあまりない。

◯それなりに納得し、上手く対処している人:ほぼ③のみ
血圧の薬をきちんと飲み、運動や食事にも気を使うから、③は経ている。
しかし①はなく、疾患理解も良好で②はほぼ感じていない。

◯非常に不安が大きい人:①~③すべてあり
めまい、頭痛、肩こりなどちょっとした症状をすべて血圧に結びつけ、不安を増大させる。1日に何回も血圧を測定しないと気がすまない。

このように考えると、本書の考える病気の射程は思った以上に広く、「やまい」について考えるうえで重要な示唆があるように思った。

考察②:FIFEとの比較

家庭医療学の分野では、本書における病気を「やまいIllness」と呼ぶ。
やまいを具体的に検討する上で、4つの要素の頭文字をとって「FIFE」「かきかえ」というものがある。

Feeling感情:どのように感じているのか
Idea解釈:病気の原因やメカニズム、悪化や改善要因などについての考え
Function影響:どのような影響があるのか
Expectation期待:ケアの提供者に対してどんなことを希望するか

これと、本書の病気の3要素を比べてみる。

①身体の不都合
これは主にFunctionだろうか。咳がひどくて仕事に支障が出る、肌荒れが恥ずかしくてプールに入りたくない、など。

②不条理感
これはFeelingやIdeaと被る点がありそう。「なんでこんな病気になってしまったのか」とか「きっと悪い病気に違いない」とか考えていれば不条理感を感じている。

③自己了解の変様の要請
これは、強いて言えばFunctionだろうか。上の方に書いたインフルエンザや肺癌の例は、Functionの話をしている、と言えなくもない。

こう整理すると、本書の3要素にはExpectationは含まれてない。
とはいえ、Expectationはやまいそのものというよりは、ケアの提供者と向き合うときに出てくるものなので、本質的なやまいの要素というよりは派生的なものな気もする。

【哲学とは何か】

 
哲学者の業績を並び立てた本としての入門書ではなく、これから哲学をどう筋道立てて行くべきか、という意味での入門書。

認識の謎の解明が本書のキーだと思うので、その部分を要約。
メモ的に言語の謎についても載せた。

認識の謎


疑えないのは「内在的知覚」であり、「超越的知覚(確信)」はどこまでいっても疑うことはできる。
人それぞれの超越的知覚を言語化し、普遍的な共通了解を目指すことが、共同体を安定させ、ともに生きるために必要である。

それらの知覚は、欲望に相関する。(欲望-関心相関性の原理)
たとえばダニにとって人間は血を吸う欲望の対象でしかない。そのため(内在的)知覚するのは酪酸の臭いや体温だけである。
(本書には記載はないが、同じものを内在的知覚として与えられていても、超越的知覚が異なることもあると思われるので、例を出してみる)。例えば子どもの算数のテストが90点だったとして、父は「この程度のテストなら満点を取ってほしい」から「不甲斐ない結果」と確信し、母は「テストの結果なんて気にしすぎないで欲しい」から「頑張った結果」と確信する。

内在的知覚から超越的知覚に至る内的構造を洞察するのが、本質観取である。
優れた本質観取は、
①外的情報ではなく内的経験の内省に依拠し、
②類似した概念との違いを明確にする。

それにより、
③他者が内省によって検証し、更に普遍的な本質へと展開することができる。

言語の謎

言語ゲームにおいては、辞書的な言葉(一般意味)を媒介として、伝えたい意味(企投的意味)と、受け取った意味(了解的意味)が生じる。

だから、辞書的な意味だけで考えていると矛盾が生じるが、現実においてはそうはならない。(嘘つきのパラドックスなど)
「嘘つきのパラドックス」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書 



スポーツと〇〇【スポーツを考える――身体・資本・ナショナリズム】

 

スポーツを考える ――身体・資本・ナショナリズム (ちくま新書) | 多木浩二 | スポーツ | Kindleストア | Amazon 

「イギリスで誕生し、アメリカで変容・拡大した近代スポーツは、いま大きな転換期を迎えている。現実には個々のネーションのなかでの「非暴力モデル」でしかなかったスポーツは、いまや国境を跳び越え、あたかも高度資本主義のモデルであるかのごとき様相を呈している。スポーツと現代社会の謎を解く異色の思想書。」

スポーツを、資本主義、暴力、メディア、身体論など様々な観点から論じた本。
30年ほど前の著作だが、面白い、そして難しい。

スポーツとアマチュアリズム
スポーツとナショナリズム
スポーツをする身体
スポーツと政治
スポーツとアメリ
スポーツとメディア
スポーツと記号論
スポーツと勝敗
スポーツと性差

という小見出しで、気になったところをかいつまんで紹介。

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スポーツとアマチュアリズム

今になるとはっきりしてきたが、長年、スポーツにおいて普遍的な価値をもつと思われてきたアマチュアリズムなる美徳にしても、スポーツを生みだしたイギリスの特権的なジェントルマン固有のイデオロギーであり、感情であった。 kindle位置: 71

このエリートの権威、職業を超えた身分が支えてきた、勝敗にこだわらず、フェアプレイを重んじるアマチュアリズムの礼賛は、スポーツに本来潜在している競争とは矛盾していた。かつて階級と身分の再確認として機能したスポーツは、今や身体的な技量の洗練化や、勝敗へのこだわりにとって代わられるようになるのである。 kindle位置: 405
プロとしてお金を稼ぐところまでいかない(いけない)人がアマチュアだと、なんとなく思っていたがそもそものアマチュアリズムというのは違うらしい。
本書では上流階級の美徳としてフェアプレイをすることを「アマチュアリズム」と記載している。コトバンクだと「金銭の授受を目的にある特定の行為をしたり,それを職業としてはならないとする考え方。」と書かれている。
アマチュアリズム(あまちゅありずむ)とは? 意味や使い方 - コトバンク 

そうした高潔さをスポーツ選手に求める考え方は確かにあって、だからこそ八百長試合などは大きな批判にさらされる。でも一方で巨大な資本がスポーツを支えているのも事実だから、両面がある。

スポーツとナショナリズム

スポーツは一方では近代固有のナショナリズムを乗り越えているが、他方ではあらたなナショナリズムを生みだしてもいる。 kindle位置: 197
オリンピックや国際大会で、国家を聞く選手たち。
一方で、資本主義さながらに国境を超えて移動してもいる。

国家というものの境界を今、破っているのは、あきらかにスポーツであり、そのくせナショナリズムの皮をかぶっているのもスポーツなのである。もちろんこの境界をもっとも打破しているのは、流動する資本にほかならない。そしてスポーツは資本という巨大な力によって動いているものなのである。 kindle位置: 2,059
 

スポーツをする身体

もともとスポーツをする身体の能力は、最初から備わっているわけではなく、当面するスポーツのために育てられ、つくりあげていかねばならないものである。 kindle位置: 454
                
スポーツマンとは「規律・訓練」(ディシプリーヌ) のなかでつくられるものである。 kindle位置: 462

つまりスポーツのなかで形成される身体は、つねにあるフォームを与えられた身体なのである。この身体が能力をもち、同時に規則に服従することになる。フーコーが『監視と処罰』のなかでとりあげる身体は、まさにこうしたフォームを与えられた身体なのである。kindle位置: 477

スポーツに最適化した身体というのは訓練を通じて培われる。それはフーコーが述べたような内的な規則に服従するような形でしか作られない。そういう意味でもスポーツというのは近代社会の産物である、と。

スポーツと政治

オリンピックあるいはスポーツは、その建前としては、つねに政治的中立を主張したし、スポーツはたしかに政治とは無関係に、あるいは政治にはイノセントでありうるものである。ところが現実には次第に世界的規模にひろがった政治文化になっていった。スポーツが政治の文化的表象になるという側面が露出してきたのである。 kindle位置: 677

ロシアによるウクライナ侵攻の後、ウィンブルドン大会はロシア国籍の選手の参加資格を剥奪した。スポーツは政治とは無関係であってほしいと願う気持ちもあるが、現実にはスポーツは政治の文化的表象になっている。

スポーツとアメリ

この特徴――攻撃と守備に明確に分かれて対峙し、誰がプレイしているか、その能力の分かりやすいゲームであり、ヒーローが出やすいこと――がスポーツのアメリカ化にさいして生じた性格かもしれない。 kindle位置: 845
テニス(シングルス)は1対1で、明確にヒーローがわかる。
野球はチームスポーツでありながら、投手と打者の1対1の対決の構図が鮮明。

それに対して、サッカーはチーム対チームで、ヒーロー的存在は野球とかに比べるとわかりにくい。だからアメリカではサッカーは流行らないのでは、とのこと。

スポーツとメディア

スポーツ情報の扱われ方、あるいはそれについての言説は、きわめて修辞的であり、それ自体として意味をもち、それによって流動的ではあるがスポーツに社会的な定義をあたえているのである。 kindle位置: 1,011
大谷のホームランや結婚は、エンタメとして消費される。
オリンピックの開会式は、何か社会的な、神聖なものとして紹介される。

アイスホッケーは目まぐるしすぎてテレビ向きでないからと言って放送する時間を減らすとマイナーなスポーツに転落する。こうした影響力をメディアの権力と言うのである。さらにその力はルールにも及ぶ。
(中略)
典型的なひとつの例がテニスの「タイ・ブレーク」(あるセットが6 vs 6になったときには、最終ゲームは 7 ポイント先にとった方が勝つというルール) であり、テレビが時間を短縮するために提案した試合方法であった。 kindle位置: 1,018
タイブレークがメディアの要請で生まれたとは知らんかった・・・。逆に、ウィンブルドンタイブレークを採用しないのは、格式ある大会としての抵抗なのかもしれない。
(選手の肉体的負担を考えると導入してほしい気もするが)

スポーツと記号論

スポーツについての記号論的分析は、簡単にいうと規則(ルール) とゲームというふたつの領域に向けられうるのである。 kindle位置: 1,080
そもそも記号論というのがよくわかってなかったが、下記を参考にすると、「ある事柄を言葉を用いて意味づけしようとすること=記号現象」を探求する学問のこと。
【記号論とは】ソシュール・パースを具体例とともにわかりやすく解説|リベラルアーツガイド 
いまいち分析の詳細はわからないが、とにかくスポーツはルールとゲームに分けることができるんだと。

つまりボールそれ自体は無意味であるが、それとプレイヤー、および空間の関係は、我有化と排除という、かつて人間の集団において表裏をなして機能していたトーテムを巡る制度の特徴が現れていると言ってもよかろう。 kindle位置: 1,213
ボールスポーツの中でも、ネットを挟んで敵と対峙するテニスタイプのスポーツについての説明。「ボールを自分の空間から排除する」というのがこれらのスポーツの本質なんだと。確かに。

スポーツと勝敗

アラン・エランベールという人物は、サッカー・フーリガンがなぜ生ずるかを論じたときに、スポーツのゲームを「平等から出発して、最終的に不平等に達する過程」と言いあらわしている( 2)。 kindle位置: 1,263
試合が始まる前は、0-0で平等。
引き分けで終わる試合も例外的にあるが、大抵の試合は勝敗がついて不平等で終わる。

これにたいして後半部の過程「+/- 0」を入れたモデルは、まさにイデオロギー的であって、実際に経済的、政治的利害から逃れていないスポーツを、こうした事態にたいしてイノセントであるように見せかけるためのプロパガンダを構成する基盤である。 kindle位置: 1,296
そして、また新しい試合では0-0の平等から始まる。
というのが建前だが、実際は利害が絡むからそうではない、と語られる。

スポーツと性差

現実の問題として、女性と男性の記録の差異がどれほど縮まっているかが、ひとつの資料になる。ガットマンによると、それはデーターであきらかなように、年を追って縮まっている。 kindle位置: 1,579

スポーツにおける男女の差異を問題にするとき、この差異が生理学的なのか、歴史的、文化的なのか、多くの意見が合意できないままでいる地点があることはたしかである。 kindle位置: 1,587

スポーツは、差別なき性差を含んだ身体文化という枠組みで語るべきゲームなのだが、この身体文化はある程度は経験されていても言語として分析の装置になっていない。身体が生成する文化はどうしても性の差異を含み込まないわけにはいかない。 kindle位置: 1,635
テニスでも男女の賞金の差が問題になることがある。
四大大会は平等だけど、ほかの大会では格差がある。
男女の賞金差「非常に大きい」
四大大会は男子5セット、女性3セットで身体的・時間的負担等に明らかな差があるのだから、個人的にはむしろ四大大会は賞金差があってもいいのではと思わなくもないが、確かに男女平等の観点からは同じ3セットマッチの大会は平等な方がいいと思う。
ただ、エンタメという観点から考えると、より観客を動員できる方が賞金が大きいのは自然ではある。きちんとしたデータはぱっと見つけられなかったけど、テニス中継を見る限り、確実に男子の方が動員数は多い。
実際スポーツ間の賞金の格差はものすごいわけで、人気スポーツの方が儲かるのは資本主義的には自然ではある。小さな大会だと賞金を高くして人気選手を呼びたいわけで、そうすると必然的に男女差がついてしまうのかもしれない。(四大大会は選手側からしたら絶対出たい憧れの大会だから、そうした配慮をする必要がない)

残酷さとうしろめたさ【100分de名著:偶然性・アイロニー・連帯】

導入

2007年に亡くなったローティは、後のトランプ大統領の出現を予言したとして再び注目を集めるようになった。

ローティの思想は、「哲学とは『人類の会話』が途絶えることのないを守るための学問である(11p)」というもの。
伝統的な哲学は真理を探求するものとされ、真理に到達すれば、それ以上の議論や会話は不要になる。しかし、ローティはそれでいいのかと問うた。
哲学の使命はむしろ、そうした議論や会話を終わらせようとする勢力に抵抗し、それらを批判的に吟味することで、会話が絶滅しないようにすることなのではないか。11p

そして、その会話が絶滅しないためのヒントや理論が書いてある本が、「偶然性・アイロニー・連帯」である。

要約

真理や本質なんてものはなく、人は偶然の存在に過ぎない。

公私を一致させるなんて人にはできないから、そんな理想は捨て去るアイロニーな必要。ただし「残酷さを避ける」という公共的な目標を持つリベラルアイロニストが必要。

「残酷さを避ける」上で、連帯が重要。
連帯とは、伝統的な差異(種族、宗教、人種、習慣、その他の違い)を、苦痛や辱めという点での類似性と比較するならばさほど重要ではないとしだいに考えてゆく能力、私たちとはかなり違った人びとを「われわれ」の範囲のなかに包含されるものと考えてゆく能力である。99p

連帯を育む上では、フィクションが役に立つ。
「私たちは、小説家のおかげで、残酷な行為が起きているのはまさにそれが気づかれてない領域でなのだという事実ばかりにではなく、残酷さは私たち自身のうちに源があることにも注意を受けることができるようになる」88p
 
このように自分に固執する人ほど、他者に対しては鈍感になる。これは程度の差こそあれ、私たち皆が用いる構造的な弱点なのだ。そして、その事実をまざまざと見せてくれるのがフィクションである。つまり、残酷さに直面した被害者への共感のみならず、「われわれは加害者にもなりうる」ことへの想像力の醸成にも、フィクションは役立つのだとローティは指摘しているのです。89p
 

感想

自分の中にある残酷さ。

人は人、自分は自分、と切り分けること。
その切り分けは確かに、一種の残酷さを孕む。
でも、すべてを自分事としてしまうと、精神的な負荷がかかりすぎる気もする。

診察室では最大限患者さんへの共感を示すが、仕事の後にまでそれを引きずると精神的に疲れてしまい、結果的に診療へも悪影響が出る。

ウクライナやガザ、それに隠れてほとんどニュースにならなくなったウイグルミャンマーなどでの悲惨な出来事。全てに常に思いを馳せていられるほど人間ができてないし、それをしてたら多分精神的に堪えられない。

とすると、残酷さは自分を守る障壁でもあり、だからこそ「構造的な弱点」でもあるのではないか。

それでも、そうした自分の残酷さを意識し「うしろめたさ」を感じることが、時々は必要なのかもしれない。


それは時に贈与に繋がるのかもしれない。