最近哲学的な本を読むブームが、自分の中で再度到来している感覚がある。
でもこの本でいったん一区切りにして、別のジャンルの本を読もう。
本書の著者の苫野氏は、上記ブログで紹介した竹田氏の弟子に当たる。
だからというか、哲学的な部分での主張はかなり近い。
絶対的な独断論でも相対主義でもなく、
疑いようのない内在的知覚と、それから来る超越的知覚(確信)を元に、
(訂正可能性を持ちつつも)共同的な普遍了解を目指す
のが哲学として重要だ
と要約できるかと思う。
ちなみに、似たような問題意識は別の著者でも見られる。
これはこれで読んでいて面白かったけど、元々思考法(議論の場などにおける注意点)の話が知りたくて読んだので、そちらの要約を記す。
N=1であることの謙虚さを忘れない
本書では「一般化のワナ」に注意、と書いてある。
=自分の経験を過度に一般化しない、ということ。
経験はもちろん大事だが、N=1に過ぎないのだから、そこへの謙虚さを忘れない。
N=1 Tシャツ L【ゆる言語学ラジオ 公式グッズ】
=自分の経験を過度に一般化しない、ということ。
経験はもちろん大事だが、N=1に過ぎないのだから、そこへの謙虚さを忘れない。
N=1 Tシャツ L【ゆる言語学ラジオ 公式グッズ】
「問い方のマジック」に引っかからない
「問い方のマジック」とは、二項対立的な問いのこと。
Q.教育は子どもの幸せのためにあるのか? それとも、国家を存続・発展させるためにあるのか? 53p
これだと、どちらかが正しいかのような錯覚に陥りやすい。
Q.教育は、どのような意味において子どもたちのためにあり、またどのような意味において国や社会のためにあるのか? 54p
これであれば、一定の共通了解にたどり着ける可能性がある。
帰謬法に対処する
帰謬法とは何か?
ひと言でいうなら、相手の主張の矛盾や例外を見つけ出し、そこをひたすら攻撃・反論しつづける論法だ。 60p
「あなたのいっていることは絶対に正しいといえるの? それって絶対なの? ぜぇぇぇったいなの?」 63p
どんな主張でも、言葉の上では必ず何らかの矛盾を指摘することができる。
だから論理的に考えるうえでは必要な作業ではあるのだが、これを議論で相手を言い負かすための論法として使う人がいるので注意が必要である。
例:人それぞれ
「人には優しくすべき」
→「優しくされて迷惑な人だっている」
例:時と場合による
「人には優しくすべき」
→「優しくされるのが嫌なときだってある」
例:人間以外にはそうは見えない
「カラスは黒い」
→「別の生き物が見たら黒には見えないかもしれない」
これらは、すべて議論を「真か偽か」に持ち込むやり方であり、実は「問い方のマジック」の一種である。
さて、それにどう対処するか。
それは、内在的知覚や超越的知覚のレベルまで話を戻すことである。
先の例「カラスは黒い」で言えば、「カラスは黒い」は疑いの余地があるけれど、「僕にはカラスが黒く見えてしまう」は疑いの余地がない。
だから、
「僕にはカラスが黒く見えてしまう」けれど、あなたはどうですか?
と聞けば、建設的な議論ができる。
Q. これがわたしの”確信”。ではあなたはどうですか? 76p