家庭医療専門医の勉強記録

医学・非医学問わず、学んだことを投稿しています。内容の間違いなどありましたらご指摘ください。また、内容の二次利用については自己責任でお願いします。

3.勉強の哲学

本書も以前ブログに残している。 

 
①2種類の切断

何らかの決断をする際に、情報収集を行う場合、現代社会においては情報が膨大すぎて全てを網羅することはできない。そこで、どこかの時点で情報を遮断する必要がある。

その「切断」には少なくとも2種類ある。

「情報を集める作業をここで打ち切るのがベストだ」と意図して切断するのが、「意味的切断」。これは主体的な切断である。

一方で、中毒・愚かさ・失認・疲労・障害などの〈主体の意図の外部のファクター〉によって行動が中断されることは「非意味的切断」と呼ばれる。
(個人の特異性=享楽的こだわりによる切断も含まれるようだ)

「非意味的切断」は、現実にはよくあることであり、それをうまく活用することが必要だ。
私たちは、 偶然的な情報の有限化 を、意志的な選択(の硬直化) と管理社会の双方から私たちを逃走させてくれる原理として「善用」するしかない。    72p

例として、読書が挙げられる。
「読んでいない本について堂々と語る方法」などの”読書本”で多々語られているが、完璧な読書など存在せず、「通読」も必ずしも必要なわけではない。




通読が不要である理由は、本書ではこのように語られる。
その理由は、本は現実にいろいろな原因によって読み進められなくなる(しかも頻繁に!)、という点にある。例えば同じ話題に飽きてきたとか、本の個別部分への関心が膨らんで他の本が読みたくなったとか。それゆえ、勉強を続けるには、〈不意に読めなくなったときに軽快に中断してとりあえずイケる本を開く〉という柔軟な姿勢──すなわち非意味的切断を受け入れる姿勢──こそが重要になる。    74p
哲学者の先生ですらこうなのか!、と読書が気楽になる。

全然関係ないが、チェンソーマンのワンシーンを思い出した。




②言語
言語には、人間を束縛する側面と解放する側面がある。

日本で生まれ育ち、日本語を習得した人間は、日本的なノリを刷り込まれる。これは言語の束縛的側面である。

一方で、「言語の物質性」は開放的側面に関わる。言語は音声や文字等により具現化されるものであり、空気振動やインクなどの物質がなければ言語も現出しない。
そして、音声や文字それ自体は好き勝手に組み替え可能である。
「リンゴ」を「リゴン」と言ったり、「リンゴはクジラだ」と言ったり、従来のノリから外れた用い方ができる。



環境は何かしら特定の言葉のコードを与え、ひとはそれに縛られる。とはいえ私たちは決して完全な奴隷ではない。むしろ言語の物質性を活用し、言葉をそれ自体で操作して、自分たちの語りのコードをズラしたり組み直したりすることができる。こうした仕方で私たちは古いノリを脱して新しいノリへ向かう。    81p


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前回ブログにしたときは、「非意味的切断」や「言語の物質性」あたりの言葉はよくわからず読み飛ばしていたが、今回多少理解が深まったように思う。

哲学的コードに引っ越しつつあるということか。


同じ本を連続で書いているとだんだんしんどくなってくるので、残りはまた気が向いたときに書こうと思う。