家庭医療専門医の勉強記録

医学・非医学問わず、学んだことを投稿しています。内容の間違いなどありましたらご指摘ください。また、内容の二次利用については自己責任でお願いします。

【社会学史】他の学問とどう違うのか?


 podcastで紹介されていた本。
聴く講談社現代新書: 社会学史(大澤真幸) - 聴く講談社現代新書 on Apple Podcasts 

社会学って聞いたことあるけど、どんな学問?って思ってる方がライトに読むには結構しんどいが笑、飛ばし読みでもそれなりに楽しめます。

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本書によると、社会学は、「社会秩序はいかにして可能か?」を問う学問である。

多くの学者・学説が紹介されていて消化しきれなかったが、面白かった点を3つまとめてみた。
■学問の分化のマップ
ゲオルク・ジンメル:相互行為では内容より形式が大事である。
マックス・ヴェーバー:合理は、非合理を前提にしている。

学問の分化のマップ

かつては学問は分離していなかった。
中世では神が真理(正しいこと)を示していた。

近代に入り、真理は神とは別に考察されるようになった。=神学と哲学の分離
哲学が神学とは別に、真理を探究する学問となった。

そして哲学は更に2つに分かれた。「哲学と科学の離婚」
一つは、経験的な観察や実験を用いて科学的に真理を探求する道。=■自然科学
もう一つは、人間の理性の能力により真理を洞察しようとする道。=■哲学(人文学、教養、学芸などの呼び名もある)
哲学史における経験論VS合理論と構図が似ているように思うが、その点は本書では触れられていない

19世紀のフランス革命以後、政治体制や社会はどのように変化するのか、本来の主権が人民にあるのならそれはどのように用いればいいのか、などの問いが生じた。こうした問いに応えるべく生まれた学問が、■社会科学である。
これは離婚した哲学と科学の、いわば中間に位置する。

社会科学の中で、最初に生まれたのは■歴史学である。

19世紀に支配的になった考えである自由主義では、「近代」を3つの機能領域の分化により定義した。そのそれぞれに対応する形で、代表的な3つの社会科学が生まれた。
政治学:国家の論理を考える
■経済学:市場について調べる
社会学市民社会の論理を考える

また、「近代」を理解するためには「近代ではないもの」も理解する必要があり、そのための学問も生まれた。
■人類学:未開社会、文字を持たない人をフィールドワーク
*人類学の当初の対象は未開社会だったようだ(https://www.jica.go.jp/jica-ri/IFIC_and_JBICI-Studies/jica-ri/publication/archives/jica/cd/pdf/200807_aid_02.pdf)。ただWikiによると、現在の人類学は、未開社会に限らず人類に関しての総合的な学問である。考古学、言語学、生物人類学、文化人類学民俗学などが含まれる。
■東洋学:文明化しているが近代や西洋でない人たちをフィールドワーク(中国、インド、アラブ、ペルシアなど)

図にまとめてみた。

 
 

ゲオルク・ジンメル:相互行為では内容より形式が大事である。

社会は相互行為(≒コミュニケーション)によって成り立っている。
相互行為には「内容」と「形式」という2面性がある。
内容:コミュニケーションをする目的や動機。相手を口説きたい、説得したい、拒絶したい、だましたいなど。
形式:コミュニケーションをする方法や形。助け合う、競争する、分担する、喧嘩するなど。おままごとや社交の場は、内容を別にして形式そのものを楽しむものである。

また社会には「結合」と「分離」の2面性がある。
誰かと繋がりたいという「結合」と、誰かと離れたいという「分離」。

ジンメルは社会にとって重要なのは内容以上に形式だと考える。
内容の面で相違があっても、形式があれば分離を保ちつつ結合ができる。

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(感想)
Mr.childrenの「掌」を思い出した。
    ひとつにならなくていいよ    認め合えばそれでいいよ   
    それだけが僕らの前の暗闇を優しく散らして    光を降らして与えてくれる



不寛容論とも類似性を感じる。
https://bc-liber.com/blogs/462d88904be4
 
 

リベロ

【不寛容論】情動的/認知的共感、伝統的寛容、不寛容。

こば
06/28 18:32
 




マックス・ヴェーバー:合理は、非合理を前提にしている。

プロテスタンティズムカルヴァン)は「予定説」を採用する。神がどの人間を救いどの人間を救わないのかは最初から決まっていて、人間の意志では決められず、しかも人間にはそれがわからない、という二重性が予定説である。

最初から決まっていて、人間が何をしようと関係ないとなれば、怠惰な生活を送ってしまいそうだが、むしろプロテスタント達は勤勉に働き、結果として資本主義が発展した。それはなぜか?

プロテスタントは、「神は私を救ってくれるはず」と想定する。それならば、救われるであろう私は、神が与えた使命を全うすることが決まっているはずだ。だから私は天職(calling)に就き、勤勉に働くのだ。

このような考えで、プロテスタントが多い地域において資本主義が発達したのでは。とヴェーバーは分析した。

ここには非合理と合理の両立が見られる。合理は、非合理を前提にしている。
■非合理:「神が私を救う」という根拠のない思い込み
■合理:神が与えた使命を全うするために勤勉に働く
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(感想)
「合理は、非合理を前提にしている」というので考えたこと。


数学の公理は、理屈抜きに正しいという前提で成り立っている。
例えば、1+1の答えが2である根拠は、ペアノの公理によって説明される。

でも、ペアノの公理そのものが正しいという理由はない。
これは前提であり、「こういうルールの下に考えましょう」という類のものである。

だから、1+1=2も、言ってしまえば、ただのルールに過ぎない。
でもそのルールがなければ、色んな計算が成り立たない。


色んな分野で、「自分」というものの不確かさが指摘されている。
仏教しかり、物理学しかり。

でも社会は「自分」(自立した主体)を前提に作られている。
非合理な前提を元に、うまく合理的に生きていけるときはそれに乗っかればいい。
うまく乗っかれないときには、前提から問い直すことで生きやすくなるかもしれない。