僕が本書を読んだのは4年ほど前で、能動でも受動でもない”中動態”というのはとても印象的だったことを覚えています。
今回、ある人からのリクエストもあって、改めて読み直してブログにしてみました。
著者は、「ひまりん」(暇と退屈の倫理学)で有名な國分功一郎さん。
なにかライフハック的な明日から役立つ知識が得られる本ではありませんが、中動態について知ることで、少し他者に対して、または自分に対して、寛容になれるかもしれません。
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今回、ある人からのリクエストもあって、改めて読み直してブログにしてみました。
著者は、「ひまりん」(暇と退屈の倫理学)で有名な國分功一郎さん。
なにかライフハック的な明日から役立つ知識が得られる本ではありませんが、中動態について知ることで、少し他者に対して、または自分に対して、寛容になれるかもしれません。
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能動と受動だけでは語れないもの
「私は謝った。」これは能動である。
「私はA君に謝られた。」これは受動である。
能動と受動の関係では「意志」の有無が問題とされるように思われる。
能動は自らの意志による行為であり、受動は自らの意志とは無関係の行為だと。
ではもし「私は”イヤイヤ”謝った。」だとどうか。
この場合何らかの外的要因から謝らざるを得ない、という状況が含意される。
何らかの外的要因の影響を多く受けた行為の場合、完全な能動とは言いづらくなる。
しかし完全な受動でもない。最終的に自らの口を動かしているのは自分自身であり、他の誰かに無理やり口を動かされたわけではない。
このように完全な能動とも受動とも言い難い事態は日常にありふれている。
そうした事態を記述するための言語がかつて存在した。それが中動態である。
「私はA君に謝られた。」これは受動である。
能動と受動の関係では「意志」の有無が問題とされるように思われる。
能動は自らの意志による行為であり、受動は自らの意志とは無関係の行為だと。
ではもし「私は”イヤイヤ”謝った。」だとどうか。
この場合何らかの外的要因から謝らざるを得ない、という状況が含意される。
何らかの外的要因の影響を多く受けた行為の場合、完全な能動とは言いづらくなる。
しかし完全な受動でもない。最終的に自らの口を動かしているのは自分自身であり、他の誰かに無理やり口を動かされたわけではない。
このように完全な能動とも受動とも言い難い事態は日常にありふれている。
そうした事態を記述するための言語がかつて存在した。それが中動態である。
中動態とは
中動態という言葉は能動と受動の中間をイメージさせるが、それは「中動態」という言葉が作られたのが既に中動態が半ば失われた時代においてだったからであり、実際はそうではない。
中動態には様々な定義がなされているが、本書ではエミール・バンヴェニストのものが最終的に採用される。
中動態には様々な定義がなされているが、本書ではエミール・バンヴェニストのものが最終的に採用される。
中動は主語が過程の内部にあるもの。
能動は主語が過程の外部にあるもの。
(*受動に対立する能動ではなく、中動に対立する語としての能動)
中動の例:「欲する」・・・主語は欲望によって突き動かされる過程の内部にある
能動の例:「与える」・・・主語の外で完遂する行為である
意志と選択と責任
早起きするかもう少し眠るか、米にするかパンにするか・・・
「人生は選択の連続である」とシェイクスピアは言った。
本書では選択と意志は別物だとしている。
選択とは、過去の経験や周囲の状況や自らの考えなどから、その都度行為を選び取ることである。
一方、意志は「始まりを司る能力」であり、外的要因とは一切関係なく、行為を選び取ることである。ただし実際には外的要因を一切受けないことはありえず、意志の存在を否定する哲学者も多い。
では、実社会においてはなぜ「意志」が問題とされるのか。
それは「責任」との関係においてである。
選択による結果に問題があった場合、その責任が問われる。
主体が責任をとるべきとみなされれば、選択に対して意志があったものと扱われる。
「人生は選択の連続である」とシェイクスピアは言った。
本書では選択と意志は別物だとしている。
選択とは、過去の経験や周囲の状況や自らの考えなどから、その都度行為を選び取ることである。
一方、意志は「始まりを司る能力」であり、外的要因とは一切関係なく、行為を選び取ることである。ただし実際には外的要因を一切受けないことはありえず、意志の存在を否定する哲学者も多い。
では、実社会においてはなぜ「意志」が問題とされるのか。
それは「責任」との関係においてである。
選択による結果に問題があった場合、その責任が問われる。
主体が責任をとるべきとみなされれば、選択に対して意志があったものと扱われる。
スピノザと中動態
スピノザは「神即自然」や「汎神論」という言葉が有名な哲学者である。
スピノザは、森羅万象すべてが神であると考える。
神だけが唯一の実体であり、自然も人間も動物も、すべては神が変状(実体が一定の性質や形態を帯びる)したものである、と。
この世のすべてが神であるのだから、神には”外部”が存在しない。
つまり神の視点からみると、すべての物事は「中動」である。
さて、神が変状した個物(=様態)としての我々は、その他の様態からの外的な刺激を受けて、自らを変状させていく。
太陽の光を浴びて日焼けしたり、他人に怒られてへこんだり。
外的刺激の本質をより多く表現した変状の場合、それは「受動」「強制」と呼ばれる。
逆に自らの本質をより多く表現した変状の場合、それは「能動」「自由」と呼ばれる。
*本質とは、自身の変状する能力のこと。また自身を維持しようとする力(=コナトゥス)のことでもある。
外的刺激を受けない存在は外部を持たない神だけであり、我々様態は外的刺激から逃れることはできない。そのため完全な自由は存在しない。
そして、自由と強制とはグラデーションである。
スピノザは、森羅万象すべてが神であると考える。
神だけが唯一の実体であり、自然も人間も動物も、すべては神が変状(実体が一定の性質や形態を帯びる)したものである、と。
この世のすべてが神であるのだから、神には”外部”が存在しない。
つまり神の視点からみると、すべての物事は「中動」である。
さて、神が変状した個物(=様態)としての我々は、その他の様態からの外的な刺激を受けて、自らを変状させていく。
太陽の光を浴びて日焼けしたり、他人に怒られてへこんだり。
外的刺激の本質をより多く表現した変状の場合、それは「受動」「強制」と呼ばれる。
逆に自らの本質をより多く表現した変状の場合、それは「能動」「自由」と呼ばれる。
*本質とは、自身の変状する能力のこと。また自身を維持しようとする力(=コナトゥス)のことでもある。
外的刺激を受けない存在は外部を持たない神だけであり、我々様態は外的刺激から逃れることはできない。そのため完全な自由は存在しない。
そして、自由と強制とはグラデーションである。
不自由の3つの理由
人間に完全な自由は存在しない。
その理由を本書では3つ述べている。
その理由を本書では3つ述べている。
身体ないし気質、感情ないし人生、歴史ないし社会 191p
身体ないし気質とは、もって生まれたもののことである。
身長が160㎝台では、どうあがいてもダンクシュートはできない。
感情ないし人生とは、その人の過ごした時間の重みのことである。
愛されて育った実感のない人は、愛し方がわからない。
歴史ないし社会とは、周囲の人々との関係性のことである。
閉鎖的な環境だと、自分の中でやりたいことがあっても、周囲の目を気にして、やりたいことができない。
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本書の冒頭で依存症患者との語りが出てくる(架空の会話らしいが)。
まさに依存症は中動態そのものだと感じる。
やめたいと思いつつもやめられない。
自らの自由な”意志”で能動的に選択しているわけでもないし、誰かに完全に強制されているわけでもない。
依存症患者は「やめられない」という過程の内部にある。
僕らは簡単に”意志が弱い”などと、その人個人に責任を帰そうとしてしまうが、事はそう単純ではない。
その複雑性に思いをはせる一助として、”中動態”という言葉が役に立つのかもしれない。
僕らは何かに依存しなければ生きてはいけないのだから。
(進撃の巨人 17巻)