家庭医療専門医の勉強記録

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認知症患者におけるparadoxical lucidityの倫理的意義

この記事では、下記論文を要約したものを載せています。

pubmed.ncbi.nlm.nih.gov


 

DAN'S SPARK OF MENTAL CLARITY(ダンの精神的な明晰さの輝き)

このケースレポートでは、こんな症例が提示されます。

 典型的なアルツハイマー認知症の70歳男性のダンさん。症状は徐々に進行し、昔の写真を見ても、人の名前が思い出せない状態が続いた。
 ある晩、昔の写真を見ていたときにダンさんは写っている全員の名前を言うことができた。妻のヘレンは涙を流して喜んだが、すぐにまた名前を言うことができなくなった。
 このエピソードは1分も続かなかったが、ヘレンにとっては印象深い出来事であり、夫と彼の病気に対する考え方が変わった。ヘレンはアルツハイマー認知症が進行性の病気であり改善しないことを理解していたが、病気が軌道修正されたのではないかと考えた。
 しかし、ヘレンがこのエピソードを家族や担当医に話すと、よく言えば無関心、悪く言えば慇懃無礼な態度をされた。娘も目撃していたが、たまたまだろうという程度にしか見ていなかった。担当医も、このエピソードを、認知症の人が人生の後半に見せる「心のいたずら」の一例に過ぎないと説明した。

PARADOXICAL LUCIDITY(逆説的な明晰さ)

次に、この論文のタイトルにもあるParadoxical lucidity(逆説的な明晰さ)について説明がなされます。​

Paradoxical lucidityとは、進行性の病的な認知症の進行により、一貫性のあるコミュニケーション能力を永久に失ったと考えられる患者が、予期せず、自発的に、意味のある、関連性のあるコミュニケーションを行うことである。

現在のところ、どのような臨床的な特徴があるのかや、神経生物学的な特性に関してはほとんどわかってない。ほとんどのエピソードは1時間以内に終わり、エピソードの後の72時間以内に死亡する患者もいる。

この概念がなぜ重要なのかというと、Paradoxical lucidityのエピソードの意味をどう解釈するかによって、介護者と臨床医の双方に倫理的な問題が生じることがあるからです。図1に倫理的な枠組みが図示されています。翻訳したものと合わせて載せます。画像1画像2

この後、認知症患者・介護者・家族それぞれにとっての倫理的意義についての考察が記されます。

Ethical implications for the care of the patient with dementia(認知症患者のケアにおける倫理的意義)

冒頭、「personhood」という概念が登場します。これは、本質的な価値を持つ個人を表す倫理的な概念のことです。簡単に言えば、その人らしさのことです。

私たちは、記憶、言語、実行機能などの認知能力によって、ある人を人として認識している。これらの認知能力は、個人がその人らしさを発揮することを可能にし、人間を人間たらしめている基礎を形成している。しかし、認知症が進行すると、これらの能力が損なわれ、ひいては個人の人間性も損なわれてしまう。

つまり、その人らしさを規定する一つの要素に認知機能があるため、認知症進行により認知能力が低下するとpersonhoodが損なわれるということですね。
認知症の人のpersonhoodの喪失は「loss of self(自己の喪失)」「death before death(生前の死)」などと表現されたり、「あの頃の個人then self」と「今の個人now self」という2つの人格があると形容されることもあるそうです。

「then self(あの頃の個人)」は、認知症の初期、あるいは認知症になる前の人物を表す。「now self(今の個人)」は、現在の病期におけるその人の姿を表す。このようなその人らしさの変化は、介護者にとって倫理的なジレンマとなる。介護者はしばしば次のような問いに悩まされる。私が介護している人は誰なのか?私は「当時の自分」と「現在の自分」のどちらを尊重した決断をすべきなのか

paradoxical lucidityのエピソードを目撃することで、このジレンマはさらに深まります。つまり、認知機能がはっきりした瞬間はthen selfが復活しており、ますますnow selfとのギャップが鮮明になる。そうすると、ケアの方針として、then selfを復活させるためにより積極的な介入を希望するようになるかもしれません。しかしそうした介入はかえってnow selfにとっては害になることもあるのです。医師などの支援者は、介護者の希望に対しても共感的に傾聴する必要があるけれど、それが患者の希望に沿うものかどうかを常に考える必要があります。意思決定能力が損なわれている患者であれば、推定意志を探る努力を怠ってはいけません。

Ethical implications for the care of the caregiver(介護者のケアにおける倫理的意義)

言うまでもなく、認知症の方(に限らないですが)の介護は、介護者に大きな負担を強いることになります。

介護者は「invisible second patients(見えない第二の患者)」とも呼ばれる。なぜなら、その仕事上、愛する人との「二人組」として機能するために、しばしば自分自身の独立したアイデンティティを放棄しなければならないからである。

医師と介護者が良好な関係を築くことができれば介護者のwell-beingの向上が期待できます。介護者のparadoxical lucidityの解釈に対して医師がどう対応するかで関係性も変化しうるので、その対応は重要です。
paradoxical lucidityのエピソードをただの思い込みや希望的観測だと疑ってかかることは関係性を傷つけることになります。また、介護者のparadoxical lucidityの解釈には、複雑な感情的な背景があります。適切なケアができていなかったのではという後悔や、医師や家族に取り合ってもらえない苛立ちや羞恥心、それらに加えて介護者はambiguous loss(曖昧な喪失感)を持っていることがあります。

ambiguous loss(曖昧な喪失感)とは、愛する人が物理的には存在するが、心理的には不在であるために起こる悲嘆の不一致をいう。

認知症患者の介護者では、ambiguous lossはよくあるとのこと。認知症に限らず、重度の神経損傷や神経疾患の患者の介護者でもみられることがあるそうです。

介護者の感情的なwell-beingは認知症の人の生活に影響を与えます。傾聴すること、paradoxical lucidityについて介護者に教えて詳細に評価できるようにすること、介護者の心理的サポート体制を整えることが重要である。

Ethical implications for the care of the family(家族のケアにおける倫理的意義)

この章では冒頭、このように書かれます。

認知症は、患者個人ではなく、家族の病気である。

まぁこれは家庭医の視点から見ればどの病気にも当てはまるわけですが。

家族間でケアの方針が一致していれば円滑ですが、不一致がある場合にはケアの質が下がる可能性があります。

不一致が起こる原因は以下のようなものが言われているそうで、ケアをする際に留意する必要がありそうです。

(1)選択肢に関する情報の不足
(2)それぞれの選択肢の長所と短所が十分に明らかにされていない
(3)社会的支援が不十分である

また、意見の不一致により、「要求の多い」や「難しい」家族といったレッテルを貼ることは避けなければいけません。

CONCLUSION(結論)

論文の最後で、冒頭症例のその後が記されます。

明晰なエピソードから1年後、ダンは脳卒中で倒れ、亡くなった。彼の死後数年経っても、ヘレンは彼の病気の発症から死ぬまでの日々を容易に思い出すことができる。その間に目立った出来事はほとんどないが、一つだけ例外がある。夫の人生の黄昏の夜、彼女が目撃したのは、ダイニングテーブルで、そのつかの間の60秒間、夫が自分自身を発見した瞬間だった

さて、結局医師はparadoxical lucidityに対してどう対応すればよいのでしょうか?

認知症患者におけるparadoxical lucidityは、想定されているよりも普遍的なものであり、まだ解明されていない倫理的な意味合いを含んでいるのかもしれない。

paradoxical lucidityを目撃した介護者に謙虚さと敬意をもって接することは、最終的にこのような患者群におけるケアを改善することになるかもしれない。

我々が日々出会う認知症患者さんの中にも、paradoxical lucidityを見せる方が実は結構いるのかもしれません。