ブログ内容
まとめ
前提の話:倫理・道徳・多様性
距離のなさ
対称性
持続性:時間がかかる
触覚の不埒さ
感想
前提の話:倫理・道徳・多様性
距離のなさ
対称性
持続性:時間がかかる
触覚の不埒さ
感想
まとめ
触覚には3つの特徴がある。
・ゼロ距離でないと知覚できないが、対象の内部(マイナス距離)をも知覚しうる。
・ふれる側とふれられる側とで不均衡があり、特にふれられる側は信頼や安心なしにはリスクを感じる。
・時間がかかる物理的メディアであり、伝達モードの要素と生成モードの要素がある。
また、解釈のリソースとしての身体が一つであることから、触覚を介して色んな経験が混同されうる。道徳的・画一的でない、個人の中の多様性に向き合う倫理が求められる。
・ゼロ距離でないと知覚できないが、対象の内部(マイナス距離)をも知覚しうる。
・ふれる側とふれられる側とで不均衡があり、特にふれられる側は信頼や安心なしにはリスクを感じる。
・時間がかかる物理的メディアであり、伝達モードの要素と生成モードの要素がある。
また、解釈のリソースとしての身体が一つであることから、触覚を介して色んな経験が混同されうる。道徳的・画一的でない、個人の中の多様性に向き合う倫理が求められる。
前提の話:倫理・道徳・多様性
■倫理と道徳
道徳:状況によらない正しさを示す べき論
例:嘘をつく「べき」ではない
倫理:具体的な状況で人がどう振る舞うか べき論+できるかどうか
例:嘘をつく「べき」ではないが、真実を伝えると傷つけることになるから、私には「でき」ない
■多様性
世の中で言われる「多様性」とは、「人と人のあいだにある多様性」のことである。
多様性の尊重自体は重要だが、そこには注意すべき点もある。
道徳:状況によらない正しさを示す べき論
例:嘘をつく「べき」ではない
倫理:具体的な状況で人がどう振る舞うか べき論+できるかどうか
例:嘘をつく「べき」ではないが、真実を伝えると傷つけることになるから、私には「でき」ない
■多様性
世の中で言われる「多様性」とは、「人と人のあいだにある多様性」のことである。
多様性の尊重自体は重要だが、そこには注意すべき点もある。
多様性は不干渉と表裏一体になっており、そこから分断まではほんの一歩なのです。 42p
多様性という言葉に安住することは、それ自体はまったく倫理的なふるまいではない。そうではなく、いかにして異なる考え方をつなぎ、違うものを同じ社会の構成員として組織していくか、そこにこそ倫理があると言うのです。 43p
また、多様性の名の下に、ある人を「障害者」「性的マイノリティ」「外国人」などとラベリングすることは、過度の画一化にもつながりうる。
つまり、「人と人のあいだにある多様性」だけではなく、「一人の人の中にある多様性」にも目を向ける必要がある。
「一人の人の中にある多様性」すべてにさわる/ふれることはできないが、もう少しその技術を見につけてもいいかもしれない。
ここから、触覚の3つの特徴についての話が展開される。
■距離のなさ
■対称性
■持続性:時間がかかる
距離のなさ
視覚は距離をとって知覚可能だが、触覚はゼロ距離でないと知覚できない。
視覚=対象を「横に並んでいるもの」(nebeneinander) として捉える感覚
聴覚=対象を「時間的に前後するもの」(nacheinander) として捉える感覚
触覚=対象に「内部的にはいりこむもの」(ineinander) として捉える感覚 64p
例えば子供を抱きしめているとき。子供が腕の中で安心して身を任せているのか、外に出ようともがいているのか、そうした子供の内部のエネルギーは触覚を介して伝わる。
つまり、単純に表面的な情報を知覚するだけでなく、対象の内部(マイナス距離)をも知覚することが触覚の特徴である。
*その情報は、体との接触が間接的であればあるほど、表面の知覚にまどわされずに、純粋に内にはいりこんでいける可能性がある。
*また、それにより得られる情報は、触り方により異なる。
つまり、単純に表面的な情報を知覚するだけでなく、対象の内部(マイナス距離)をも知覚することが触覚の特徴である。
*その情報は、体との接触が間接的であればあるほど、表面の知覚にまどわされずに、純粋に内にはいりこんでいける可能性がある。
*また、それにより得られる情報は、触り方により異なる。
対称性
私が私にふれるときは、私は私によってふれられてもいる。この触覚に特有の主体と客体の入れ替え可能性を、本論では触覚の「対称性」と呼びたい 56p
ただし人が人にふれる場合は、どちらが主体でどちらが客体になるのか、その関係は必ずしも対等ではなく、ふれられる側が不安を感じることもある。これは「信頼」の問題である。
■信頼と安心
安心とは、「相手のせいで自分がひどい目にあう」可能性を意識しないこと、
信頼は「相手のせいで自分がひどい目にあう」可能性を自覚したうえでひどい目にあわない方に賭ける、ということ 87p
例:
子供が外に出たら交通事故にあうかもしれないから、外出させない → 安心を得る
そういう可能性もあるが、「可愛い子には旅をさせよ」と思い送り出す → 信頼する
■ふれる側と、ふれられる側の不確実性と信頼
ふれる側は、ふれ方を決める。接触のデザインに関して主導権を握る。
そして、双方とも、不確実性を抱えている。
子供が外に出たら交通事故にあうかもしれないから、外出させない → 安心を得る
そういう可能性もあるが、「可愛い子には旅をさせよ」と思い送り出す → 信頼する
■ふれる側と、ふれられる側の不確実性と信頼
ふれる側は、ふれ方を決める。接触のデザインに関して主導権を握る。
そして、双方とも、不確実性を抱えている。
ふれる側が抱える不確実性は、ふれたことによる相手のリアクションが読めないという不確実性です。
(中略)
ふれられる側の不確実性とは、ふれようとしている相手のアクションが読めないという不確実性です。 94p
この不確実性を乗り越えるには信頼が必要であり、接触には信頼が前提となる。
■ふれる側と、ふれられる側の不均衡
ふれる側は、ふれられる側から拒絶されたりするリスクを抱えている。
ふれられる側は、ふれる側から暴力を振るわれるリスクを抱えている。
つまり、基本的に、ふれられる側の方がより大きいリスクを抱えている。
ふれられる側が、リスクを乗り越えるには信頼が必要で、その信頼が積み重なると、「相手のせいで自分がひどい目にあう」可能性が頭に浮かばない状態=「安心」となる。
■ふれる側と、ふれられる側の不均衡
ふれる側は、ふれられる側から拒絶されたりするリスクを抱えている。
ふれられる側は、ふれる側から暴力を振るわれるリスクを抱えている。
つまり、基本的に、ふれられる側の方がより大きいリスクを抱えている。
ふれられる側が、リスクを乗り越えるには信頼が必要で、その信頼が積み重なると、「相手のせいで自分がひどい目にあう」可能性が頭に浮かばない状態=「安心」となる。
持続性:時間がかかる
時間がかかることで、触覚的なコミュニケーションが行われうる
■コミュニケーションで用いられるメディア(手段)
(106p)
〇記号的メディア
・その手段を使う前に先立って、その意味が決められている =コード化
・文字や単語など小さな単位に分割可能 =不連続的、デジタル
・接触を伴わない = 非接触
〇物理的メディア 例:手取り足取りテニスのスイングを教える
・さわり方や関係性によって、「暴力的」「丁寧」「セクハラ」「魅力的」など意味が変わる =非コード化
・連続的な接触の中でコミュニケーションがなされるので分割しにくい =連続的、アナログ
・接触を伴い、参加者が同じ時間空間を共有している = 接触・同期
■コミュニケーションのモード(態度、調子)
(113p)
〇伝達モード 例:コンビニでレジに買いたい物を出す
・「これを買いたい」というメッセージが客(=発信者)から店員に伝えられる
・そのメッセージは一方向的
・客と店員という役割分担は明瞭
〇生成モード 例:日常会話
・話題は次々移り変わり、そのやり取りの中でメッセージが生まれていく
・双方向的なやり取りで、役割分担は不明瞭
■さわるは伝達モード、ふれるは生成モード
(121p)
(124p)
障害に関わる場面では、健常者の側に正解があり、それを障害のある人に伝える、となりがちである。もちろん一方向的なやり取りが必要な場面はあるが、対等な関係を目指すのであればできるだけ双方向的なやり取りが望ましい。
著者の問題意識は、スローガン的に言えば「さわるからふれるへ」「伝達から生成へ」。
■「ふれる」の極限としての、「さわる」
一方で、さわるが有効な場面がある。
さわる側からさわられる側に伝達する場面:
車道に飛び出そうとする幼児を慌てて止めようとするとき、「そちらに行ってはいけない」というメッセージを伝えている。
さわる側が、さわられる側の伝達を受け取ろうとする場面:
死にゆく人にさわるとき、その肉体に残された命を虚心坦懐に読み取ろうとしている。
■コミュニケーションで用いられるメディア(手段)
(106p)
〇記号的メディア
・その手段を使う前に先立って、その意味が決められている =コード化
・文字や単語など小さな単位に分割可能 =不連続的、デジタル
・接触を伴わない = 非接触
〇物理的メディア 例:手取り足取りテニスのスイングを教える
・さわり方や関係性によって、「暴力的」「丁寧」「セクハラ」「魅力的」など意味が変わる =非コード化
・連続的な接触の中でコミュニケーションがなされるので分割しにくい =連続的、アナログ
・接触を伴い、参加者が同じ時間空間を共有している = 接触・同期
■コミュニケーションのモード(態度、調子)
(113p)
〇伝達モード 例:コンビニでレジに買いたい物を出す
・「これを買いたい」というメッセージが客(=発信者)から店員に伝えられる
・そのメッセージは一方向的
・客と店員という役割分担は明瞭
〇生成モード 例:日常会話
・話題は次々移り変わり、そのやり取りの中でメッセージが生まれていく
・双方向的なやり取りで、役割分担は不明瞭
■さわるは伝達モード、ふれるは生成モード
(121p)
(124p)
障害に関わる場面では、健常者の側に正解があり、それを障害のある人に伝える、となりがちである。もちろん一方向的なやり取りが必要な場面はあるが、対等な関係を目指すのであればできるだけ双方向的なやり取りが望ましい。
著者の問題意識は、スローガン的に言えば「さわるからふれるへ」「伝達から生成へ」。
■「ふれる」の極限としての、「さわる」
一方で、さわるが有効な場面がある。
さわる側からさわられる側に伝達する場面:
車道に飛び出そうとする幼児を慌てて止めようとするとき、「そちらに行ってはいけない」というメッセージを伝えている。
さわる側が、さわられる側の伝達を受け取ろうとする場面:
死にゆく人にさわるとき、その肉体に残された命を虚心坦懐に読み取ろうとしている。
「ふれる」を突き詰めていくと、その果てには「さわる」が、つまり「ふれあう」ことなど不可能な存在として相手が立ち現れてくる次元がある。誠実であろうとすればするほど、他者に対する態度は非人間的な「さわる」に接近していきます。 134p
これは重要なメッセージな気がしているが、いまいち消化しきれていない。他者の中の他者性というか、自分が認知すらできない不可侵の領域が他者の中にある、そのことを自覚せざるを得ないということなのだろうか。
触覚の不埒さ
第5章で、「介助者として仕事をしている男性が、女性とセックスしようとしたときに、瞬間的に「介助に似ている」と思ってしまい、やる気が失せてしまった」という話が紹介される。
現実の「解釈のリソースとしての身体」が、マテリアル面で共通していることが、わたしの経験を混乱させたのだと言える。身体というリソースが介助とセックスで共通している、だからこその「混同」なのだとすれば、冒頭で述べたこと(セックスの最中に介助を連想する) は当然、その表裏一体の状況なのだ、ということになる。 174p
これは触覚がゼロ距離であるが故の、混同である。
「セックス時に介助の仕事を思い出すべきではない」という道徳的規範を、触覚はゆさぶる。その代わりに「思い出してしまったとしたら、どうすればよいのか」という倫理が立ち現れる。道徳的な画一的な私以外の、自分の中の多様性が出現する。
「セックス時に介助の仕事を思い出すべきではない」という道徳的規範を、触覚はゆさぶる。その代わりに「思い出してしまったとしたら、どうすればよいのか」という倫理が立ち現れる。道徳的な画一的な私以外の、自分の中の多様性が出現する。
触覚は道徳的ではないかもしれない。でもそれは確かに、いやだからこそ、倫理的でありうるのです。 194p
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感想
医師は、日常的に患者さんにふれる/さわる。
・特に比較的若い女性にふれる/さわる場合は、できるだけ配慮するようにしているが、それでも相手の中で性的なものとして解釈されたり、嫌な経験をフラッシュバックさせる可能性を考慮しておく必要がありそうだ、と改めて思った。
・本書の中では触覚の「Healing」効果については記載がなかった。特に高齢の方で「初めて聴診してもらいました」「初めて診察してもらいました」などと感動されるケースはそんなに珍しくない。
・上記ブログにも書いたが、僕の中の仮説として、「触覚は人間の最も原始的で最も重要な感覚なのでは」というものがある。(*医学用語的には、正確には「体性感覚」のことを想定しています)
人間は他の五感(視覚・聴覚・味覚・嗅覚)がなくても何とか生きていけるが、触覚なしだと(少なくとも乳児のうちは)生きていけない。生存に直結するからこそ、触覚は他の五感以上に情動面に影響するのでは・・・と思った。