家庭医療専門医の勉強記録

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「人それぞれ」じゃ良くない話【「みんな違ってみんないい」のか? ――相対主義と普遍主義の問題】

哲学とか、歴史とか、いろいろ学ぶと
「絶対的に正しいものなんてないんだなぁ」と思う。

そうすると、「人それぞれでよくね?」(=相対主義)と考えるようになる。
でも、「人それぞれ」で済ませていいことと、困ることがある。
 



本書はそんな「人それぞれ」を乗り越えるためにどうしたらいいか?について書かれた本。納得できない点もあったし、理解が追い付かない点もあったが、勉強になった点もあった。

まず相対主義が広まった歴史的背景の考察がある。(普遍主義→文化相対主義→個人の相対主義新自由主義による広がり)

その後、言語学文化人類学を基に「”人それぞれ”というほど人の違いは大きくないのでは」という主張を行う。(細かい点で反論したくなった点もいくつかあるが、主張そのものはわかる)

そして、「人それぞれ」を乗り越えて「より正しい方向」へ向かうにはどうしたらいいかの考察がある。道徳的な面での正しさ、事実認識という面での正しさについてそれぞれ考察がある。
ここは正直全体像を理解しきれなかったが、乱暴に要約するなら
「話し合いを通じて、他人の感情や考えを聞き、共通認識を形成することが重要」
「より有用な理論にとって代わられる可能性はあるものの、現在有用とされている仮固定としての意味の場のことをまず知るべき。ファクトチェックが重要」

ということかと。
ただ、ガブリエルの意味の場に関する考察は興味深かった。理解が深まった気がする。

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第1章:「人それぞれでよくね?」の歴史

西洋文明「絶対に正しいものが知りたい」=普遍主義

第一次世界大戦など・・・
西洋文明「今までやってきたことは本当に正しかったのか?」
→植民地などの文化の多様性を認める
「正しさは文化それぞれ」=文化相対主義

→文化内でも個々の多様性を認める主張が出てくる =個人の相対主義
(例:フェニミズム内で黒人女性やLGBTが白人女性に反旗を翻す)
(*権力に支配されるような)
そうした状況を変えていくためには、なるべく多くの人が連帯しなくてはなりません。しかし、抑圧されている人たちが連帯するためには、まずは「女性」や「黒人」や「同性愛者」といった既存の名前やカテゴリー(抑圧すべき対象を指定するために権力が作ったカテゴリー) を受け入れなければなりません。 29p

アメリカ発、新自由主義「正しさは人それぞれ!自由>平等!」
他人に迷惑をかけなければ何をしても良い。=他人とできるだけ関わらない
経済政策とも相まって世界的に広がる

→「野球とサッカーどっちが好き?」程度の問題なら「人それぞれ」で良い。
でも、「原発に賛成?反対?」などの問題は「人それぞれ」では最終的に困る。
”より正しい”方向へと向かわなければいけない。

→多様性を認めつつ連帯するにはどうしたらいい?

第2章:文化相対主義への批判「言うほど違わなくね?」

言語学
ソシュール「名前の付け方に特別な決まりなんてないっしょ」=恣意性
例:日本だと蛾や蝶と呼ぶ虫を、フランスだとパピヨンと言う

チョムスキー「本当に恣意性だけだったら赤ちゃんが言葉覚えるの無理ゲーでしょ」=言語生得説
例:大人「これはリンゴだよ」と言いつつリンゴを指さす
  赤ちゃん「リンゴってどれのこと?指?指を差す行為?色?この物体?」

→言語に多様性はあるが、脳というOSが共通なので、脳が理解できる範囲にとどまる
「”言語それぞれ”って言うほど違わないっしょ」

文化人類学
西洋「劣った未開のやつらに俺らの文化を教えてやる」

→ボアズ、ミード「いやいや、それぞれの文化に価値あるよ。サモア人には思春期の反発ないんだよ?」

→フリーマン、ブラウン「いやいや、調べなおしたらちゃんと思春期あったから」

→文化に多様性はあるが、やはりそれも人間にとって理解できる範囲内にとどまる
「”文化それぞれ”って言うほど違わないっしょ」


第3-4章:正しさとは?

■道徳的な正しさ=人間の行為の正しさ
あまりまとまりがないように感じたので要約は省略
「正しさ」は個々人が勝手に決めてよいものではなく、それに関わる他人が合意してはじめて「正しさ」になるのです。 66p

■ガブリエル的な、「人それぞれ論」+「実在論」の両立
例:私の左手
「見る」→指が5本、肌色
「使う」→フォークを持つ
「物理学的分析」→素粒子の束

そうした「文脈(=意味の場)」を離れた「左手そのもの」は存在しない。→絶対的な実在の否定
「見る」という文脈では”素粒子の束”にはならないし、指は6本に見えたりしない。→個々の文脈における実在性(多様性の否定?)
要するに、 存在はコンテキストに応じて多様な現れ方をするが、その多様性それぞれに実在性がある ということです。人それぞれの主観で存在の現れ方が変わることはない。 128p

■意味の場は発明される?発見される?
素粒子は、物理学が発展する前からあったのか?
ある=実在論
ない=本書の主張

あるとするなら、仮に素粒子論が将来的に否定されたら、それらはすべて実在しないことになるのか??

例:機械の発明  偶然による発明 → 発明後は物理法則に従って必然的に作動
→理論であっても、機械と同様に「発明の偶然性と規則による必然性」があるのではないか

例:天動説=「すでに使われなくなった機械」
天体の位置の予測には現在でも有効だが、地上の物体の運動の予測には使えない
→両方に使える有用な「機械」である「地動説」が用いられるようになった