家庭医療専門医の勉強記録

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【ピダハン】アマゾン先住民の本を読んだら、瞑想したくなった話

 






本書を知ったきっかけはゆる言語学ラジオ。
ゆる言語学ラジオでの本書紹介(”なろう系小説”風)がわかりやすい。
福音派としてキリスト教を、未開のピダハンというアマゾンの奥深くに住む少数部族に勧めに行こうと思ったら、そいつらの言語は数もなくて色もなくて創世神話もなくて価値観ひっくり返りすぎて無神教になって家族と離婚した話    (一部改変)

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直接体験の原則

本書で、最も興味深かったのは「直接体験」についてである。
特に、第7章「自然と直接体験」で詳しく解説されている。

xibipiio(イビピーオ)という言葉が、ピダハンという集団の特質性を表している。
最終的にわたしは、この言葉が表す概念を経験識閾と名づけた。知覚の範囲にちょうど入ってくる、もしくはそこから出ていく行為、つまり経験の境界線上にあるということだ。
(中略)
単語イビピーオはこのようにして、それまでわたしが個別に取り組んでいたピダハンの価値観に共通するひとつの顔をもたらしてくれたのだった。その価値観とは、語られるほとんどのことを、実際に目撃されたか、直接の目撃者から聞いたことに限定するものであるらしかった。    207p

デカルト流の創造性の原理とは逆に、ピダハンは話題として容認できることに線を引き、直接体験という狭い範囲にかぎって話すことに文化的価値を置く。    400p

直接体験の原則とは、直に体験したことでないかぎり、それに関する話はほとんど無意味になるということだ。    415p

自身が直接体験したこと(もしくは直接体験した者から聞いた話)しか重視しない。
と、こんな風に表現してもいいかもしれない。
俗っぽく言えば、「又聞きは信用しない」と言ってもいいかも。

この直接体験の原則から、やや論理の飛躍があるかもしれないが、以下のような事柄が帰結すると考えられる。

①    抽象化をあまり行わない
直接経験の原則のもとには、何らかの価値を一定の記号に置き換えるのを嫌い、その代わりに価値や情報を、実際に経験した人物、あるいは実際に経験した人物から直接聞いた人物が、行動や言葉を通して生の形で伝えようとするピダハンの思考が見られる。    140p

②    不安などネガティブな思考が減り、幸福感が増す
サン・テグジュペリは、こう述べる。「人間に恐ろしいのは未知の事柄だけだ。」
しかし直接体験の原則に留まれば、余計なことを考える余地は減る。
そして、ピダハンにはそもそも「心配」を表す言葉がない。
わたしはピダハンが心配だと言うのを聞いたことがない。というより、わたしの知るかぎり、ピダハン語には「心配する」に対応する語彙がない。ピダハンの村に来たMITの脳と認知科学の研究グループは、ピダハンはこれまで出会ったなかで最も幸せそうな人々だと評していた。
(中略)
ピダハンは類を見ないほど幸せで充足した人々だ。わたしが知り合ったどんなキリスト教徒よりも、ほかのどんな宗教を標榜する人々よりも、幸福で、自分たちの環境に順応しきった人々であるとさえ、言ってしまいたい気がする。    427p



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ここから、自分が考えたことを書く。

①仏教的姿勢との親和性

まず思ったのは、仏教の瞑想や、いわゆるマインドフルネスにおける発想との親和性である。

瞑想は、要は呼吸という身体感覚に意識を集中させることで、際限なく広がる不安・心配などの思考から距離を取ろうとする試みだ(と理解している)。

そして際限なく広がる思考というのは、例えば未来の事柄など、多くが直接体験していないことを対象としている。

直接体験に留まることというのは、即ち直接体験を越えた無限に広がる思考に一定の制限をかけることに繋がり、それは過度な思考による不安や心配から距離をとることに繋がるのでは、とそう思った。

現代日本における直接体験とは?

以上のように、直接体験の原則は、僕らのような日本人にとっても一定の有用性があると思う。

とはいえ、僕らの環境はアマゾンに住むピダハンとは著しく異なる。
僕らにとっての直接体験をどう考えたらいいだろうか。

例えば、Youtubeで動画を見る。
動画を見ることは僕の直接体験だが、生のYoutuberに会ったわけではない。
でもまるで会ったかのような感覚を体験する(「拡張された体験」とでも言うか)。

例えば、小説を読む。
活字を目で追うことは僕の直接体験だが、小説の世界を直接体験したわけではない。
でも小説の世界を疑似体験した気分になる(=「拡張された体験」)。

そして、時にその「拡張された体験」は直接体験以上のものに感じられる。
言い換えると、僕らの環境は直接体験と、時にそれ以上の影響力を持つ「拡張された体験」に囲まれている

ただし「拡張された体験」は、あくまで間接的な体験であるから、直接体験の原則からは外れる。
*軽く調べると、教育論の文脈で直接体験、間接体験といった話が出てくるが、僕の考えたいものと若干ニュアンスが違うので、そちらの定義は今回は採用しない。
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/04121502/055/003.htm など


とはいえ、僕らの環境において「拡張された体験」を避けることは難しい(し、そもそも「拡張された体験」自体は楽しいことも多い)。

そうすると①に立ち戻って、「拡張された体験」に暴露されつつも直接体験に立ち戻るような機会を意識的に作ることが有用ではないか。
と考えると、先進国においてマインドフルネスなどが一種の流行りになっていることも、そうした有用性の証左と言えるかもしれない。


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その他、印象的だったところ

この経験からわたしは、ピダハンが外の世界の知識や習慣をやすやすとは取り入れないことを知った。たとえどんなに役に立つと思われる知識であってもだ。    127p
*ピダハンたちが、生活に役立つカヌーを作る技術を身に着けたにも関わらず、カヌーを作ろうとしなかったこと

ピダハンの文化はひじょうに保守的な文化である。    320p
保守と聞くと政治の話みたいで何となく嫌な響きを感じるが、「自分たちの伝統を大事にする」というポジティブな意味づけもできる。

親しい友人や家族に、みんなの人生の基盤にもなっている信仰を──血肉となっている信念を──自分はもう共有していないと告げるのは生易しいことではない。ひょっとしたら、こちらが異性愛者であることを露ほども疑っていない相手に、ゲイであるとカミングアウトするのに、似ているかもしれない。    417p
LGBTの話題でカミングアウトやアウティングのことが時々出てくるが、信仰を失ったという告白がそれに近いくらいの衝撃であると。確かにアマゾン奥地まで宣教に行くほどの人間が信仰を失うというのは、人生が180度変わってるもんなぁ。

たしかにピダハンは請求書の支払期日を気にする必要はないし、子どもをどの大学に行かせればいいかという悩みとも無縁だ。だが彼らには、命を脅かす疾病の不安がある(マラリア感染症、ウィルス、リーシュマニアなど)。性愛の関係もある。家族のために毎日食料を調達しなければならない。乳幼児の死亡率は高い。獰猛な爬虫類や哺乳類、危険な虫などに頻繁に遭遇する。彼らの土地を侵そうとする侵入者の暴力にもさらされている。    426p
ピダハンの生活の厳しさを端的に物語る文。それにも関わらず幸福そうな笑顔を見せる、というギャップ。

ピダハンの人々は夜になったからといってまとまった時間熟睡していまうわけではないらしい    430p

ピダハンの人々が暗くなっても寝静まることはなく、時には夜中に狩りや釣りにも行くとしたら、人間には体内時計があって、朝太陽の光を浴びることでそれがリセットされる、という話はいったいどういうことになるのだろう。    431p
僕は昔から睡眠が苦手で、睡眠の本は何冊も読んだことがあるし、自身も医師なので睡眠障害の患者さんの診療経験は数えきれないほどある。
が、今まで教わってきた「睡眠学」の原則にピダハンは当てはまらないらしい。


ほか、赤ん坊の安楽死、妊婦の死、殺人者への村八分など暗い話題もあったが、非常に示唆深い本でした。