家庭医療専門医の勉強記録

医学・非医学問わず、学んだことを投稿しています。内容の間違いなどありましたらご指摘ください。また、内容の二次利用については自己責任でお願いします。

http://tinyurl.com/23v5fr2t

 

【脱力について】

・「その行為に必要な筋肉以外を徹底的に解除すること」 27p

・自分の姿勢を崩壊させ落下しようとする「重力」に方向づけをし、自分が必要とする力へと瞬時に転換させるのが、私の考える「脱力術」なのです。 33p

・「余分なところを動かさない」ためには、そのシステムを乗り越えて「使いたくなるところ」を止めておいて、もっと大きなところから力を発生させようみたいな考え方なんですけど、それって多分心の領域も似てるんじゃないかと思っています。 270p

 

このあたりの身体の使い方の話は面白かった。早速ランニングで試してみたら少し良かった気がする。

 

【理性より感性を重んじること】

・論理的に説明できることは、「論理的に説明できる程度のこと」 48p

 

思ったより心構え的な話が多くて、結構読み飛ばしてしまった。

漫画シグルイの原作となった小説。 http://tinyurl.com/2c7go849

 

史実を元にした創作。 戦いの迫力・凄惨さもさることながら、当時の命に対する価値観の違い、厳格な身分社会、身分が下の者や女性の扱いのひどさ、などなかなか衝撃的な作品だった。 シグルイのタッチで他の戦いも見たかったなぁ。

signに気づき、signを出そう:「世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学」

世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学 (NewsPicksパブリッシング)

https://www.amazon.co.jp/dp/B085NJC1HD?tag=booklogjp-default-22&linkCode=ogi&th=1&psc=1 

【こんな本です】

原子力エネルギーが大きな割合を占めていた1990年代のスイス。
とある小さな村が、核廃棄物の処理場の建設候補地に選ばれた。
事前調査では処理場受け入れに対して51%が賛成だった。
「国が全住民に対して毎年、多額の補償金を支払う」という前提を加えてもう一度調査をすると、賛成派は51%から25%に減ってしまった・・・。
本書の冒頭はこのように始まる。その謎を解き明かそう、というのが本書の試みである。

Mr.childerenの「sign」をご存知の方であれば、signとは何かを考察した本、という言い方をしてもいいかもしれない。

 

【先に自分なりの結論を】

この世界はアンサングヒーローに支えられた不安定つり合いのボールである。
人間は存在するだけで、潜在的な宛先(受取人)であり、差出人の存在を肯定する。
贈与を受け取るためには、勉強をして求心的思考や逸脱的思考を深めていく必要がある。
贈与を受け取ることができれば、自身も差出人となり、贈与を行うことができる。
贈与を行うことができれば、結果的に宛先から「生きる意味」を受け取れるかもしれない。ただし見返りを求めてはいけない。届くようにと祈るだけである。
市場経済のすきまを贈与によって埋めていこう。

【全体像】

本書は1~9章で構成されている。私なりにざっくり3つのパートに分けてみた。
★贈与やその関連語の説明
1:金では買えないもの~贈与はプレゼントだ
2:ギブアンドテイクの限界~交換とは何か
3:毒親~贈与が呪いに変わるとき
4:サンタクロース~贈与の時間性

★世界の説明
5:この世界の説明~言語ゲーム
6:常識は疑うな~求心的思考
7:地球の自転が止まったら?~逸脱的思考
8:世界は不安定つり合いだ~アンサングヒーロー

★まとめ
9:結論~手紙の受取合い

以下、それぞれ説明していく。

【贈与やその関連語の説明】

【贈与とは何か?~交換・自己犠牲・偽善・呪いと対比して】
本書における贈与は「僕らが必要としているにもかかわらずお金で買うことのできないものおよびその移動」と序盤で仮定義される。

交換・自己犠牲・偽善・呪いと対比して説明していく。(ただし正確な説明ではない)

お金で買うことができるものは、贈与ではなく交換だ。
自分へのご褒美で自分にプレゼントを買う場合、それは自分の労働や努力との対価でそれを手に入れている。これは等価交換だ。
一方、他人からプレゼントをもらった場合、そのプレゼントはただのモノではなく特別なモノに変わる。その付加価値が、贈与の性質の一つである。

何も受け取ってない人が何かを差し出すことはできない。無理に差し出すなら、それは自己犠牲だ。
所持金0の人が募金しようと思えば借金するしかない。
愛されたことのない人は、人を愛すことはできない。

対価を求めないのが贈与だが、実は見返りを求めているのが偽善だ。
目上の人へのごますりは、何らかの利益を見込んでいるから偽善だ。
ボランティアであっても、誰かに褒められたいなどの目的が透けて見えると偽善に写る。

偽善を与えられ、何も返せるものがない場合、人は呪いにかかることがある。
家業を継がせたい・老後の世話をさせたいという自分の利益があるにもかかわらず、愛してなどいないのに愛していると欺瞞を装う毒親は、子供に呪いをかける。
呪われた相手は、返礼することもできず、その場を逃げ出すこともできず、束縛されてしまう。

贈与の時間性】
上記の説明から、贈与の性質が明らかになる。

①贈与を受け取った者(受取人)には返礼義務が生じる。

②贈与をした者(差出人)は、差し出したことが気づかれてはいけない
ばれると受取人に返礼義務が生じ、交換になってしまう。
ただ、ずっと気づかれないままでは贈与にならないので、いつかは気づいてもらう必要がある。

③贈与は送ってすぐに気づかれてはいけないが、いつかは気づいてもらわないと贈与にならない。
つまり、必然的に贈与とは不確実である。届かないかもしれないが、いつか届くようにと祈る。未来に対する願いである。

④受取人はどこかのタイミングで贈与に気づく必要がある。
気づいた時点で、その贈与は過去に完了している。

【世界の説明】

【この世界は言語ゲームだ】
次に、本書はこの世界についての説明に入る。
本書によると、この世界の人間の営みは全て言語ゲームである。
これは、実践を通してゲームが成立するがゆえに、事後的にルールというものがあたかもそこにあるかのようにみえるゲームのことだ。
つまり、「ルールもわからずゲームに放り込まれ、何とかやっていくうちに徐々にルールを理解していく」のだ。逆に、ゲームに参加することなくルールを理解することは原理的にできない。

例)人間の言語ゲームに放り込まれた赤ちゃんは「窓」をどう理解するのか?
wikipediaによると「窓」とは「採光、通風、眺望といった目的のために日常は人の出入りに供さない開口部に設置される可動型もしくははめ込み型の建具」である。これを赤ちゃんに説明しても、当然わからない。
窓を指さして「これが窓だよ」と言っても、指さしているものが外の風景なのか、四角形のことなのか、窓枠を構成する木のことなのか、わからない。
「寒くなってきたから窓を閉めよう」とか「窓を見てごらん、お月様だよ」とか活動やコミュニケーションを通して、窓の意味を事後的に理解するのだ。

さて、世界の人間の営みが全て言語ゲームなのだから、必然的に「人間は言語ゲームから逃げることはできない」、ともいえる。また、言語ゲームはある程度の重なりはあるものの、他者と全く同じではない。他者を理解するには相手の言語ゲームに入れてもらったり、共同で新しい言語ゲームを作ったりしていく必要がある

【求心的思考】
「3+5=8」について考えてみよう。
「3+5=8」が正しいという確たる証拠はないにも関わらず、誰も本気で疑おうとしないのはなぜだろうか?それは、「3+5=8」を疑ってしまうと、それ以外の事が成り立たなくなる(=言語ゲームが崩壊する)からだ。

例)3gと5gの分銅と、8gの分銅を乗せて釣り合わなかったなら?
「3+5=8」が間違っているのではなく、天秤の故障などの他の可能性を疑うべきだ。

このように、疑うべきではない常識・合理性・パラダイムを元に思考することを「求心的思考」という。
上の例でいえば、「3+5=8」という常識があるからこそ、天秤が釣り合わないという異常(アノマリー)を見た時に、天秤の故障など他の可能性を考えることができる。

例2)贈与は市場経済のすきまそのものである
現代社会は市場経済という言語ゲームをベースにして動いている。市場における交換が基本として存在するからこそ、贈与にアノマリーとして気づくことができる。

【逸脱的思考】
求心的思考に対して、常識そのものに疑いを向けるのが「逸脱的思考」である。
これはSF的発想であり、根源的問いかけを日常化することでもある。

例)もし地球の自転が停止したら?
太陽光が当たらない土地は極寒の地となり、太陽光が当たり続ける土地は灼熱の地となる。ほとんどの生物は死滅するだろう。

例2)テルマエ・ロマエ古代ローマ人現代日本にタイムスリップしてきたら?
銭湯も、冷えたフルーツ牛乳も、ウォシュレットも、ウォータースライダーも、どれも古代ローマ人から見たら常識外そのものである。

【不安定つり合いの世界】
この世界はサッカーボールの上に乗った卵のように、不安定な中で釣り合っている。
卵が落ちないためには支えてくれる手が必要だが、その手は目に見えない(見えにくい)。
世界はそうした無数の「アンサングヒーローの贈与」に支えられて成り立っているのだ。
そうした存在は、得てして気づかれず、何らかの障害があったときに初めて気づかれることも多い。

例)LIBERにアクセスするためにはアバタローさんをはじめとしたLIBER運営チームのメンテナンスが必要だし、パソコンやスマホが必要だし、電気が必要だし、日本語を習う必要がある。それらの整備には日本の成長を支えてきた先人たちの努力も必要だったし、そこそこ平和な状況でなければとても投稿などできないから、自衛隊の抑止力も現代日本の平和な状況に寄与しているかもしれない。

【贈与の受取合いについて】

【贈与の受取人はメッセンジャーになる】
夏目漱石が「I love you」を「月がきれいですね」と翻訳したという逸話がある。
美しい景色を見ると、誰かに教えたくなる。純粋な自然の贈与を受け取ると、誰かにシェアしたくなる。
ここにおいて、贈与の受取人はメッセンジャーへと変わり、贈与を差し出す側に変わる。

【贈与の双方向性】
夏目漱石の例において、もし愛する人が隣にいなければ、きれいな月を共有することはできない。愛する人が隣にいなければ、月をきれいとも思えないかもしれない。
つまり、愛する人(=宛先)の存在によって、月は贈与すべき存在へと変わり、人は贈与を差し出す側(=メッセンジャー)に変わる
言い換えると、宛先という贈与の受取人は、その存在自体が、差出人に「使命」を逆向きに贈与している、ともいえる。
人間は、ただ存在するだけで、その存在自体がそこを宛先とする差出人の存在を肯定するのだ。

【贈与を受け取るために、勉強せよ】
贈与を受け取るためには、想像力が必要だ。そのためには勉強しなければいけない。
例えば歴史を学ぶと、現代日本のように生命の恐怖におびえずに生活できる人が多い時代は決してデフォルトではないことがわかる。
もし過去の時代に自分が生まれていたら、この目に何が映り、何を考え、どう行動するか、をできるだけリアルに想像することで、贈与を受け取りやすくなる。

【まず、贈与に気づくこと】
贈与に気づけば、人間はメッセンジャーになる。その自覚から始まる贈与の結果として、宛先から逆向きに「生きる意味」が、偶然帰ってくる

【雑感】

本書自体は以前に読み終えていたのですが、その時は上手く言語化できず、読書ログもメモ書き程度になってしまいました。(ブクログという他サイトに投稿)
今回改めて読み返してみました。

前回の読書ログで「勉強の哲学」を取り上げ、生きる意味について考察しましたが、図らずも本書で新たな視点を得ることができました。


また@ほしかわ(@半身タコ) さんが取り上げて頂いた「祈り」という書籍も、本書を読む上で刺激になりました。

また、株式会社COTENの深井さんがCOTENRADIOというpodcastの中で「アウトプットよりインプットが大事」という話をしていらっしゃって、これもまずは贈与を受け取ることからという本書の主張と合致するように思いました。
(サポーター限定配信での発言なのでURLは貼らないでおきます)

私は宛先として妻や子どもという愛すべき存在がいます。そして、私の生活は家でも職場でもそれ以外の場所でも多くのアンサングヒーローに支えられています。もっと贈与を受け取れるように思考や想像力を深めていきたい、それを宛先に届けられるようになりたい、そう思いました。

現代思想入門 メモ

 

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現代は秩序を強化する方向にある。

現代思想は秩序強化に警戒心を持ち、秩序からのズレ=差異に注目する。

 

二項対立があったとき、ある価値観を背景にすると、一方がプラス、もう一方がマイナスとみなされる。

その二項対立や価値観を徹底的に疑い、脱構築を試みるのが現代思想である。

  

 

デリダ:概念の脱構築

パロール話し言葉)とエクリチュール(書き言葉)の対立を考える。

 

パロールは直接的で、本質的で、現前性(目の前に本物がある)がある。

エクリチュールは間接的で、元のものから離れているために誤配・誤解の可能性がある。非本質的。

 

パロールの方が優越性を持つとみなされがちだけど、どちらにもそれぞれの良さがある。ただし、それはどっちもどっちという相対主義ではない。

優柔不断なのはいけない。責任をもって決断しなければいけない。どっちつかずの態度でいると、人に振り回されることになる。大人になるというのは、決断の重さを引き受けることだ。

というツイートが本書内で紹介されている。

人に振り回される=自分が自分でなくなる=間接的=エクリチュール

責任をもった決断=直接的=パロール

 

重要なのは、「未練込みでの決断をなす者こそが大人」だということだ。

 

我々は確かに、生きていくうえで決断をせざるをえない。広い意味で暴力的であらざるをえない。ただし、決断は完全固定ではなく仮固定である。

また、未練とは他者性への配慮のことである。決断で選ばなかったもう一方への思いを残しておくことである。

 

ドゥルーズ:存在の脱構築

一般的な二項対立は、同一性が先、差異が後である。

私と自転車はそれぞれ同一性をもつ個物として存在し、関係性としての差異は後である。

 

しかしドゥルーズはその関係性を逆転し、差異が先、同一性が後と考える。

物事の背部の諸々の関係性(バーチャル、生成変化)が先にあり、仮固定としての同一性(アクチュアル、出来事)は後だと考える。

酸塩基平衡のような動的平衡のようなイメージだろうか。

 

また、ドゥルーズは存在はすべてが繋がりあうリゾーム的な関係性でありながら、同時にあちこちで途切れている(非意味的切断)とも述べた。

関係と無関係のバランスが大事である。

 

フーコー:社会の脱構築

社会には、多数派を正常とみなし、そうでないものを異常とみなし排除しようとする動きがある。異常をマイナスとみなし早期介入することは、マジョリティに適合させるためのケアという側面も否めない。(例:発達障害等)

 

近代は自己監視のパノプティコン的社会で、規律訓練により人民が内的に自律することを求めた。

現代は生政治的で、人々を集団・人口として扱おうとする。(例:ワクチンなど)

 

現代思想の源流:ニーチェフロイトマルクス

秩序(アポロン)VS混乱(ディオニュソス)の対比で考える。

 

ニーチェ

秩序(アポロン

混乱(ディオニュソス



同一性

差異

下部構造

アリストテレス

形相(かたち)

質料(素材)

プラトン

理想の形=イデア

 

フロイト

意識

無意識(性的エネルギー)

 

必然

偶然

 

物語化

他者=コントロールできない

 

精神分析は構造を見る。色々しゃべってもらうことにより症状(=物語=固定されたもの)が解きほぐされる。

マルクスは搾取されない、より自律的な力(ディオニュソス的な)の発揮ができないかを考えた。

 

精神分析現代思想

まとまっていない認知のエネルギーを制限するのが、人間の発達

認知エネルギーは自由に流動する=欲動 

制限とは有限化。母と一体でい続けられない不安、戻ってきたときの喜び。死の偶然性と隣り合わせの快=享楽。

邪魔するものが父であり、父の介入が去勢。

母の代理としての欲望の対象が「対象a」だが、本当の満足は決して得られない。




【ふつうの相談】



家庭医の界隈で結構話題になっていた本。
ライトな本かと思ってたら、予想外に骨太本だったのでまとめてみることに。

著者は、臨床心理士の東畑さん。
「居るのはつらいよ」など多数著作あり。



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要約

ふつうの相談とは、ありふれたケアである。

その最も原初的なものをふつうの相談0とする。ふつうの相談0は、(クラインマンの言うところの)民間セクターで行われるケアである。熟知性(相手をよく知っていること)を通じて相手を知り、世間知(≒一般常識)を説明モデルとすることで相手を理解し対応する。このとき相手の苦悩は(中井久夫が言うところの)個人症候群のレベルで取り扱われる。

ふつうの相談0は原石であり、相談を受ける人の状況に応じてそれが精錬される。精錬には2つの方向がある。
1つはそれぞれの学派の理論である学派知(精神分析など)。学派知は切れ味が鋭く、だからこそ有効なこともあるが却って有害なこともある。
もう1つはそれぞれの現場の常識としての現場知。制度などの硬い現場知と、その現場を利用するユーザーの傾向に応じた柔らかい現場知とがある。現場知は、その現場では有効だが、しばしば一般社会での非常識になる。
この2つを組み合わせたものが、あなたにとってのふつうの相談(ふつうの相談A)である。

*専門家は、専門的な知識を現場に応じて応用する、と考えがち。
しかし、実は本当は逆で、素人的な、ふつうの相談0が先にあり、そこから派生して学派知や現場知が生まれている。

世間知、学派知、現場知はそれぞれ有効な場面と有害な場面があり、臨床家にはその3つの知をメタに見て使いこなす「臨床知」が必要である。

感想

この本は、あくまで「心のケア」としてのふつうの相談に焦点が当てられているが、身体面においても同じことが言えるのではと思った。

たとえば、運動後の息切れ。「普段から運動不足なんじゃないですか。急に運動しないでちょっとずつ慣らしたほうがいいですよ」というのがふつうの相談的な対応である。(臨床現場でもこうしたアドバイスをすることは少なくない)

でも、顔色が悪かったり、酸素飽和度の数値が低かったり、その人が基礎疾患持ちだったりすることを知ってたりすれば、「心不全だろうか、喘息だろうか。誘引は感染症心筋梗塞だろうか。色んな可能性を考えつつ検査をオーダーして、搬送の準備もして・・・」と専門知モードになるかもしれない。

考えてみれば、身体症状だって元々はふつうの相談で対処していて、それじゃどうにもならない場面があったからこそ、医学が発展してきたのだろう。

そして医学知(本書で言う学派知)は言うまでもなく有効な場面も多いが、有害なこともある。

だから、メタ的な視点が重要なんだなぁといつもの結論に落ち着いた。


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(以下、詳細メモ)

序論

仕事の悩み、友人関係の悩み、学業の悩み、恋愛や家族関係の悩み、そうしたことを相談され、それに答える。

専門家だけでなく、家族や同僚・友人たちの間でも交わされているそんな「ありふれたケア」、それを本書では「ふつうの相談」と呼ぶ。
ふつうの相談とは何か。それはいかなる形をしていて、いかなる構造によって成り立っているのだろうか。これが本論の問いである。    16p
 
◯2つの心理療法
心理療法論は大きく2つに分けられる。
①学派的心理療法論。
精神分析ユング心理学認知行動療法など。
特徴:体系性。
一貫した心理学理論、フォーマットとなる技法、それを習得するための訓練システム。

②現場的心理療法論。
「〇〇現場で活かす〇〇療法」という本などが当てはまる。
それぞれの現場に適した心理療法論。
特徴:折衷性。
現実的な妥協を肯定する。

◯冶金(やきん)スキーム
2つの理論の関係を、フロイトは「純金」と「合金」に喩えた。
①が純金、現場の要請から他の要素が入り混じる②は合金。
純金は、様々な現場で応用されるために合金となる。

(22p)

◯ふつうの相談の位置
ふつうの相談の位置づけには2つの答え方がある。

①冶金スキームの最も周縁部
ふつうの相談には専門性をかなり薄めたようなある種の「素人性」がある。
専門家から見れば、ふつうの相談は冶金スキームのごく一部に過ぎないように見える。

②最もありふれていて、中心的なもの
しかし、実際は「ふつうの相談」は最もありふれたケアである。
図2で言うと、花弁の外側にふつうの相談の広大な草原が広がっている。

その全体像を掴むには、冶金スキーム(専門家的視点)から脱して、俯瞰的にみる必要がある。

第1部    〈ふつうの相談〉の形態

ふつうの相談はいかなる形をしているのか。
ふつうの相談はシチュエーションに応じて多様であることが本質だが、本論では著者の文脈を例示しつつ提示する。
*著者は都内でカウンセリングルームを開業していて、精神分析心理療法(以下、セラピー)を専門にしている。

◯〈ふつうの相談〉のアセスメント
色んなクライエントがいる中で、誰をセラピーの対象にし、誰は外部機関に紹介するのか、そして誰が〈ふつうの相談〉の対象となるのか。
①問題の性質、②モチベーション、③社会経済的環境の三点を特に考慮する。

①問題の性質
・緊急性の有無
緊急性が高い場合、精神症状なら医療機関、DVなら警察、などと連携・紹介して、その後をサポートするような〈ふつうの相談〉が選択される。
慢性的な問題であれば、心理療法の適用を考える。

・問題がクライエントの外側にあるか内側にあるか
たとえば子育ての悩みであれば、問題が子供の発達特性や周囲からの支援不足であれば、〈ふつうの相談〉の対象である。子供の発達についての理解を促したり、環境調整をしたりする。
逆に本人自身のパーソナリティに起因する不安などであれば、心理療法の適用を考える。

②モチベーション
クライエントが何を望んでいるのかを明確にし、その求めに応じるのが基本である。

③社会経済的環境
お金や時間の問題がまず重要であるが、ほかに文化的な問題もある。
芸能人は軽度の躁状態であることが必要かもしれないし、家族が強く宗教的に結ばれていればセラピーは有害かもしれない。

◯3    〈ふつうの相談〉の技法
①聞く
相手の話を聞き、理解しようとすることが最も重要である。
ただし、〈ふつうの相談〉ではセラピーに比べて、聞いた上での応答の比重が高い。
セラピーは「自分で自分のことを考える」比重が大きいが、<ふつうの相談>では具体的な援助を求める比重が大きいため。

②質問する
これも基本要素である。
ただし、セラピーのときに比べて、〈ふつうの相談〉でなされる質問は穏健であり、マイルドになる傾向がある。
ここで原理となっているのは安全性である。クライエントをできるだけ傷つけないような配慮に貫かれているのが〈ふつうの相談〉の特徴だと言える。 41p
具体的には、「眠れているか?」「食べれているか?」など、心について尋ねるよりも、体の話をすることが多い。

③評価する
標準的なセラピーの教科書では臨床家は価値中立的であるべきとされている。これは価値の主観的な側面を重視している。
これに対して、〈ふつうの相談〉では価値の社会的側面を重視する。 
「一般的にはどう評価されることなのか」をクライエントが知ることには、支持的な効果がある。    42p
自分の立ち位置がわかると助かる、同じ価値を共有できると孤独が和らぐ、といった側面がある。

ただし、評価にはリスクもある。
クライエントは臨床家の価値観に束縛されてしまうかもしれないし、その価値観によって自責感を強めるかもしれない。とりわけ、価値の社会的側面にはしばしばマイノリティに対する暴力が含まれていることにも注意しなければいけない。    43p

④説明する
相手の話を聞き、自分がどう理解したかを相手に説明する。
これは心理教育に近い。
重要なのは知的な説明であり、知識の提供であり、言葉をインストールすることである。    44p
すぐに納得できないことであっても、頭で理解しておくことは大事である。

⑤アドバイスする
アドバイスには2種類ある。
    1.大きなアドバイス:全体的な見通しをもって、大局観を与える。
    2.小さなアドバイス:細かな具体的な助言。
アドバイスは、問題解決につながらないことも多いが、それでも強要さえしなければ、役に立たないアドバイスも役に立ちうる。一緒にトライ&エラーすることができるから。

*④説明する、と⑤アドバイスする、はセットである必要がある。
アドバイスなき説明は現在だけが与えられて未来が欠如しているからクライエントの放置になるし、説明なきアドバイスは納得感が伴わないから無効である。    45p

⑥環境調整
アドバイスのより積極的な形として環境調整がある。
家族のサポートを得るために一緒に面談したり、職場や学校と情報交換したり、ソーシャルワークと連携したり。
要は関係者を増やし、みんなで心配することである。究極的には、これこそがメンタルヘルスケアの本質だと思う。    46p

⑦雑談・社交・世間話
大人にとっての雑談は、子供にとっての遊びである。
その本質的な機能は、「社交」にある。
社交とは得体の知れない他者と平和な関係を築くために試みられるものである。それゆえに互いの本質には踏み込まず、社会的なコードに従って表面的な会話を維持することには価値がある。    48p

雑談で世間について語り合うことで、お互いにとっての世間の共通点や相違点が明らかになる。趣味の話なども同様である。
ブルデュー文化資本概念が教えてくれるように、趣味とは社会的なものである。そこには経済階層や社会的権力の差異が刻印されている。雑談をして、世間話を重ねることは、お互いの間にある社会的差異と同一性を確認する営みに他ならない。    49p

◯4    〈ふつうの相談〉の機能
技法を見てみると、〈ふつうの相談〉は日常的な相談と大差ない。
では〈ふつうの相談〉にはクライエントにとってどのような効果があるのか。

①外的ケアの整備
クライエントが問題を抱えている場合、大抵は個人の要素と環境の要素の両方がある。
その場合、先に介入すべきは環境である。
環境に暴力が吹き荒れ、ケアが欠如しているとき、人は混乱に陥るが、環境が整備され、ケアが厚くなるならば不安は和らぎ、考える力が戻ってくる。この段階に至ってはじめて、個人の心の問題を扱うことができるようになる。    50p
*環境調整の重要性は、個人の心の内側に焦点を当てがちな従来の臨床心理学では見失われやすい。

②問題の知的整理
次に取り組むべきは、個人の要素のうち、変わりやすい部分である。
理性や意識は変わりやすく、情念や無意識は変わりにくい。
そのため、問題の知的整理が役立つ。

「何がわからないかもわからない」のはとても不安であり、問題そのものが解決しなくても、どういう問題があるのかがわかるだけでも価値がある。
医学の世界でも、「診断のつかない症状」は医師患者双方を不安にさせる。仮にでも診断名が与えられることで一定の安心感が得られうる。

③情緒的サポートの獲得
以上の二つの機能が果たされたときに、情緒的サポートが成立する。この順序が重要だ。教科書ではしばしば、ラポールを形成してから、心理的作業に入っていくと書かれているが、まだ何の役にも立っていない専門家をどうやって信頼できるというのか。 52p
と本書では書かれているが、個人的には若干違和感がある。
「なんとなく信頼できそう/できない」という感覚は、相手に会ったときの雰囲気や、もっと言うと相手と会う前から醸成されつつあるのではないか。信頼されればされるほど色んなことを聞き出しやすくなり、それが①②の機能を高め、①②で実際に役に立てば立つほど更に信頼は増す。

そして信頼を得ることができれば、そうした相手の存在そのものが①の外的ケアの資源の一つになる。

④時間の処方と物語の生成
①~③が機能することで、様子を見ることが可能になる。
時間が経つことで、外的な要素は徐々に落ち着き、心も少しずつ安定を取り戻す。

◯機能まとめ
・基本的なベクトルは「外側から内側」である。環境整備→頭の整理→情緒的支え→心の安定。
・それぞれの機能の純度を高めると学派的心理療法論になる。
①→ソーシャルワーク、家族療法など
②→認知行動療法
③→来談者中心療法
④→精神分析
 

第2部    ふつうの相談の構造

フロイトの冶金スキームではなく、「精錬スキーム」を考えたい。
確かに学派的心理療法論は純金かもしれないが、そのときふつうの相談は合金などではなく、野生の鉱物である。原石である。純金とはこの原石を「精錬」することによって取り出されるものなのだ。これを、合金をめぐる冶金スキームに対置する、「精錬スキーム」と呼びたい。 57p
このとき、極限の姿として理論的に想定される、全く精錬していない原石としての「ふつうの相談0」こそがメンタルヘルスケアの始源である。
ふつうの相談0をどの程度精錬するか、その火加減をケースバイケースでちょうど良いところで調整するのが臨床家として重要である。

1    ふつうの相談0
ふつうの相談0は、臨床心理学誕生以前から存在しており、これを理解するためには臨床心理学だけでは十分ではない。そのため別の枠組みからも考える。

◯比較心理療法論と医療人類学
学派的・現場的問わず心理療法論には、吟味されない前提があり、それを「ベタ」に飲み込むことが必要である。(例えば精神分析では「無意識」の存在が前提となっている)
そしてその前提に親和性がある臨床家やクライアントにとっては有益だが、前提を共有できない相手は排除するように働いてしまう。

これに対して「ベタ」な前提は飲み込まず、「メタ」な視点から心理療法について考える潮流もある。
このようなやり方を「メタな比較心理療法論」と呼ぶことにしよう。異なる理論的前提をもつ治療同士を比較し、そこにある同一性と差異を浮かび上がらせるやり方である。    65p
メタな比較心理療法論は人類学、哲学など人文社会科学で広く行われている。
特にクラインマンは包括的な仕事をしたため、彼の理論に沿ってふつうの相談0を吟味してみる。

◯ふつうの相談0の位置
クラインマンはあらゆる社会に、人々が心身の不調に対応し、健康を追求するための仕組み(ヘルスケアシステム)が備わっているとし、それが三つのセクターから構成されていると考えた。
・専門職セクター:社会的に公認された専門家(医者など)
・民俗セクター:オルタナティブな専門家(占い師など)
・民間セクター:素人の民間文化    ★ふつうの相談0はここに位置づけられる

(図4)

図の通り、民間セクターのカバーする範囲は他の2つよりもはるかに大きい。
人々はまず民間セクターを利用し、民間セクターで処理しきれないときに初めて他の2つのセクターを利用する。
そして、専門家によりなされることの多くは、民間セクターで行われるケアの再起動に過ぎない。薬を処方されたとしても飲むのは本人だし、メンタルケアにおいてもまずは環境調整が重要である。

◯説明モデル理論
ふつうの相談0の構造を明らかにする上で、クラインマンの説明モデル理論を参照する。
説明モデルとは「なぜ病気になり、その病気はいかなるメカニズムで成立しており、それはいかなる治療法で対処され、いかなる予後が想定されるのかについての一貫した理解(70p)」のことである。
治療者は特定の理論的枠組み=説明モデルを用いて、ユーザーの抱えている問題を定式化し、説明し、それに基づいて介入する。そのプロセスで治療者とユーザーは説明モデルをコミュニケートし、交渉し、修正しながら共有することになる(共有できないとその治療は中断することだろう)。71p
治療は説明モデルを通じて、人間をある種の生き方へとかたどっていく営みである。
呪術師による霊的治療に癒された人は霊的存在に畏敬を払った生き方をするようになるし、マインドフルネスで癒された人は日々をマインドフルに生きるようになる。

◯ふつうの相談0の説明モデル
では、ふつうの相談0における説明モデルとは何かと言うと、それは素人たちが素朴に懐いている自己や他者の心についての理解である。
中井久夫の仕事を参照し、この素人の説明モデルを明らかにしていく。
中井 74 は人々が病気、あるいは心身の不調を認識するありようとして「普遍症候群」「文化依存症候群」「個人症候群」の三つのアスペクトを挙げた。    74p

・普遍症候群:
西欧近代医学の中で発展してきた診断カテゴリー。統合失調症双極性障害など。
客観的な観察による診断であり、「普遍」的に適用可能とされる。
専門職セクターが管轄し、診断を下す権利や運用について制度的に定められている。
そこには権力が生まれ、現代の公的制度の利用のためには普遍症候群の診断が必要になっている。(休職のための診断書など)

・文化依存症候群:
それぞれの文化に固有のローカルな診断カテゴリー。日本における「狐憑き」など。
その管轄は民俗セクターにある。
これは決してエキゾチックなものではなく、我々の文化にも存在する病のアスペクトである。(例えば、痩せを追求する「摂食障害」が、欧米文化を文脈とした文化依存症候群とされたりする議論があったりする)

・個人症候群:
不調を個人の人生を文脈として物語ろうとするときにあらわれる病名。
(本書内では著者の、出版前後の精神的な変動を呈する「出版精神病」について語られている)

中井久夫の3つの症候群と、クラインマンのヘルスケアシステムの対応はゆるいものだが、有用な補助線にはなる。
ふつうの相談0は、不調を個人症候群として扱っているときに生じる。

◯熟知性
個人症候群の前提となるのが熟知性=「よく知っている」ことである。
「山崎くん、今試練の時期だよな」と心配するためには、彼がどういう人であり、どういう来歴で生きてきて、そしてどのような近況にあるのかをよく知っている必要がある。    77p
相手を知っているからこそ、普遍症候群的には「気分障害」なのが、「人生の危機」という個人症候群に見えてくる。

熟知性のなかでは、よく知っているからこそのアドバイスや配慮がなされる。そしてそれはケースバイケースであり、また日常的な関係性の延長上で「自然に」なされる。
逆に、熟知性が破綻をきたして、「よく知っている」はずの人がよくわからなくなった時に、専門家への相談が選択肢に浮上する。専門知は、わからなくなった人をわかるものにしてくれる。
たとえば、「なんでやる気がないのかわからない」「なぜあんなに怒りっぽいのか」と周囲が扱いあぐねていた人は、「うつ」と診断されることによって再び理解可能な人になる。この意味で、専門知とは本質的に「補助線」である。    78p
 
◯世間知(≒一般常識、良識)
カントは、世間を生きていく上で学ばれる人間と社会についての知を「世間知」と呼んだ。ふつうの相談0において、わたしたちは世間知を参照する。

世間知には2つの構成要素がある。
・フォークサイコロジー:人間とはいかなる存在か
・フォークソシオロジー:社会とはどんな場所か(身の回りの具体的な環境)

つまり、世間知とは人間や社会についての素人知を結合させたものであり、これが普通の相談0の説明モデルとなって、目の前の人の苦悩や不調を「医学的疾患」ではなく生きることの個人的な困難として理解することを可能にする。

◯ふつうの相談0の限界
どんなときにふつうの相談0は破綻するのか、その限界も考えておく必要がある。

まず、世間知の複数性。
世間知は一枚岩ではなく、たとえば団塊の世代とZ世代の世間知は大きく異なるだろう。ジェンダーや社会階層などによっても大きな差異があるはず。
この世間知の差異は、ふつうの相談0を破綻させる。
異なる世間を生きている人への世間知に基づいたアドバイスは、他者のリアリティを否定する非現実的なものになってしまう。    85p

次に、世間知の規範性。
世間知は、その世間において「どう生きるべきか」を教えてくれるが、逆に「どう生きるべきではないか」という抑圧にもなる。特にマイノリティには抑圧として経験されやすい。

最後に、熟知性の限界。
相手のことをよく知らなければ、熟知性は機能不全に陥る。
現代社会においては個人化が進行し、熟知性は低下しやすい。

◯ふつうの相談0、まとめ
ふつうの相談0は、民間セクターで行われるケアである。熟知性を通じて相手を知り、世間知を説明モデルとすることで相手を理解し対応する。このとき相手の苦悩は個人症候群のレベルで取り扱われる。

2    ふつうの相談B
筆者はカードA(学派的心理療法論)のオルタナティブとしてカードB(ふつうの相談)を用いることがある。
カードBは、カードAから零れ落ちた「カードA以外のすべて」である。
カードBを選択するとは、背水の陣を敷くことである。カードBはそのクライエントを引き受けるためにある。つまり、リファーしたり、支援を断ったりするのではなく、自分のところで問題を預かる。本質的な解決ではないかもしれないが、ひとまずの解決を見出すために、手持ちの材料でなんとかしのいでいく。    90p
このようなカードBとしてのふつうの相談である、「ふつうの相談B」の構造を見ていく。

◯カードAと学派知
精神分析など、それぞれの学派にはそれぞれの理論「学派知」がある。
そこには①理解、②価値判断、③介入という3つの契機がある。
特に②は重要で、要は学派知が「健康」だと考える生き方へクライエントを導いていくのが学派知の発想である。
そして、カードAは切れ味が鋭い一方で、その刃によって傷つく人も出てくる。精神分析的主体化は人を幸福にすることもあるし、不幸にすることもある。

◯ふつうの相談Bの構造
ふつうの相談Bにおいて、理解は学派知においてなされる。
精神分析を学んだ者は、どうしても精神分析的側面からクライエントを理解しようとしてしまう。

しかし、価値判断の局面では世間知による補正が入る。
学派知は説明モデルが徹底されている一方で、世間知は穏健でマイルドな日常的な価値を重視する。その2つの間で葛藤が生じることになる。
ふつうの相談Bの原理は「悩ましさ」にある。問題となっているのが、塩梅であり、バランスであるからだ。学派知と世間知の間でふつうの相談Bに取り組んでいる臨床家は揺れ動く。    96p
そのため、ふつうの相談Bにおいては学派知的な介入と、世間知的な介入が入り交じることになる。
僕の場合で言えば非精神科医の立場からメンタルの問題に関わっている。僕のカードAは「PIPC(Psychiatry In Primary Care)」という非精神科医のための精神科疾患の対応方法である。
実は身体疾患に起因するメンタル不調でしたなんてこともあれば、うつ病や不安障害とラベリングして抗うつ薬などを処方することもあれば、休職の診断書を書いたりDVとして警察と連携したりして環境調整に乗り出すこともあるし、傾聴やアドバイスだけで終わることもある。



(図6)

3    ふつうの相談C
今度は、ふつうの相談のもう一つの側面である「現場知」としてのふつうの相談Cを考える。(CはClinicalの頭文字)

◯現場知とは
現場知とは同じ現場で仕事をしている人たちが共有している説明モデルである。
デイケアにはデイケアの、保健室には保健室の、〇〇会社には〇〇会社の現場知がある。
ふつうの相談Cは現場の文化に内在していて、当たり前の日常に浸透している。
ふつうの相談Bでは学派知と世間知が価値判断の局面で葛藤していた。臨床家はケース・バイ・ケースでその判断に悩む必要があった。しかし、ふつうの相談Cでは葛藤は目立たない。それは自然に流れてゆくものである。    102p

◯現場知の2つの側面:硬い現場知と柔らかい現場知
硬い現場知とは、その現場を取り巻く法律や制度などの、公的なものについての知である。(たとえば会社なら、休職や復職の制度など)
硬い現場知は公文書に記載があるが、使いこなすには経験が必要で、血肉化する必要がある。

柔らかい現場知はより心理的・経験的・人間的なものである。
たとえば自分の働く児童養護施設で、どういうトラブルが起きやすく、どんなときには修復されやすく、どんなときには後遺症を残すか、など。

硬い現場知は日本中の施設とある程度共通しているが、柔らかい現場知は個々の施設に固有なものが多い。
この2つの知はどのような価値を有しているのか。

◯硬い現場知の説明モデル:制度的役割
それぞれの臨床現場は社会的制度にしたがって、予算が計上される。そのお金の流れが、それぞれの現場の制度的役割を表現する。
たとえば企業の相談室は、社員が健康に働き続けることを目的としているため、そこのカウンセラーは「働くこと」を規範とすることになる。
臨床現場は制度が求めることを果たさねばならない。人間を社会が望むように象ることが求められる。現場知には社会的規範が埋め込まれているのである。    106p

すると、そこには権力が生まれる。権力には暴力的側面と保護的側面が含まれる。
・暴力的側面:かつての精神病院が「治療」の名のもとに患者を閉じ込めた、など
・保護的側面:児童相談所が非虐待児を一時保護する、など
ここにある権力の危険性と保護性を、身をもって知っているのが現場の臨床家であり、そこにあるのが血の通った硬い現場知である。    109p

◯柔らかい現場知の説明モデル:社会的ニーズ
それぞれの臨床現場を利用するユーザーの人口的傾向から、柔らかい現場知が生まれる。
平たく言えば、「うちの利用者にはどういう人が多いのか」という現場知である。
たとえば僕の前職は高齢化率30%を超える雪国の田舎だった。特に冬は家にこもっていることが多いから血糖値が上がりやすい。でも逆に雪かきをする人は運動量が増えて血糖値が下がったりする。何年かいると、実感としてそういう傾向が見えてくる。

◯ふつうの相談Cの構造
現場知はトップダウンの制度的役割(硬い現場知)とボトムアップの社会的ニーズ(柔らかい現場知)のせめぎ合いによって形成される。
そのせめぎあいによって、それぞれの現場の臨床文化が形成される。その現場がどんな問題を引き受け、どんな人間を規範とするのか、そのためにどう介入するか。そうしたことが現場の人たちに共有される。
ふつうの相談Cとは本質的に集団的で組織的なものである。    112p

◯世間知と現場知の関係
現場知は、専門家としての世間知である。
専門家が、現場に入って徐々に慣れていくことで、そこの現場の空気を学んでいく。
つまり、それぞれの現場についての世間知こそが現場知なのである。ふつうの相談Cとはふつうの相談0をそれぞれの現場に合わせてローカライズしたものだということだ。    114p

(図7)

このとき、臨床現場の常識が、しばしば一般社会での非常識になることは気をつけなければいけない。

結論    ふつうの相談の位置

1    ふつうの相談A――メンタルヘルスケアの地球儀
実際の臨床では、ふつうの相談Bの顔と、ふつうの相談Cの顔の両方がある。
図6と7を垂直に組み合わせることで、球体ができる。
これをふつうの相談Aと呼ぶ。(AnataのA)

(図8)

2    臨床知

(図9)

専門知とは、学派知と現場知をあわせたものである。
知は複雑な現実を単純化して理解しやすくする装置であり、そこには常に単純化による暴力が潜んでいる。
だからこそ、心の臨床家にはこれら三つの知をメタに見る視点が求められる。地球を宇宙から見る人工衛星が必要なのだ。学派知が人をどのように形作ろうとするのか、現場知がいかなる「健康」を目指すのか、世間知はどのように生きるのを「善し」としているのか、そしてそれらがどのようなときにユーザーを傷つけ、損なってしまうのか。    123p
臨床知とは、3つの知をメタに見る視点そのものである。



HOTに共感、COOLに共感。【モラルの起源-実験社会科学からの問い】

モラルの起源-実験社会科学からの問い】 

本ブログでは、本書の概要をざっくり述べた後、本書で触れられている「ゴシップ」と「共感」について私見を書いています。

本書の概要

本書は、「人の社会を支える」人間本性を、実験社会科学を用いて検討した本です。

実験社会科学とは?
確立した定義はないものの、本書ではフィールドワークやコンピュータシミュレーションなどを含む実験によって、人間の行動や社会のふるまいを検討することを指しています。

さて、この本はは5つの章に分かれています。各章の概要はこんな感じです↓

第1章:ヒトはどのように環境に適応するのか?
・適応には3つの時間軸がある(進化時間、歴史文化時間、生活時間)
・適応すべき環境は「群れ」の生活である

第2章:昆虫との社会性の比較
・昆虫は行動の同調と評価の独立性により、群れ全体のパフォーマンスを上げる
・ヒトは群れよりも個体の利益を最優先する傾向にあるため、評価の独立性が担保されづらい

第3章:協力関係の作り方
・個人の利益と社会の利益は時にバッティングするため、社会規範を守らせることが集団の維持に必要で、その方法の一つに制裁装置の保持がある
・制裁装置にはコストがかかるため、ただ乗り問題が発生しうる。その防止のために罰を予告したりすることもあるし、人間は感情的ドライブで罰行動を行いやすい
・人間がゴシップを好むのは、互いの連帯感を深めるほかに、その場にいない他者の「本当の利他性」を知ることが集団の維持に重要だからである

第4章:共感する心
・共感は、模倣、情動の伝染、思いやり行動などを含む重層的なシステムである
・模倣は、相手の心を理解しようとする「身体化された認知」の働きを持つ
・情動の伝染(情動的共感=ホットな共感)は近しい相手ほど起きやすく、イヌなどの他種であっても起こるが、自他融合的であり情動に圧倒されるリスクも孕んでいる
・一方、認知的共感(=クールな共感)は自他分離的であり、相手の心的状態を推論することで行われる。異質な相手に対する利他性は、認知的共感により担われるかもしれない

第5章:社会はどうあるべきか
・社会システムには大きく「市場の倫理」と「統治の倫理」がある
・「市場の倫理」は内外の集団と等しく付き合うことを推奨し、「統治の倫理」では内集団とだけ協力することを好む。一つの倫理だけなら協力的社会になるが、二つが拮抗するとうまくいかない
功利主義による最大多数の最大幸福を目指した選択も、ロールズ主義的な最小を最大にする選択も、いずれも「最不遇状態への関心」が共通している
・正義の実現の一つの方法として、功利主義が国境の壁を越えた共通基盤になりうる。理想論ではなく、実用主義的な視点が必要である
________________________________________

感想①:ゴシップについて

人間がゴシップ好きなのは狩猟採集民の時代から変わらないそうです。
ただ、僕はゴシップはあまり好きではなく、職場でそうした話題が出ると苦笑いしながらそれとなくその場から離れることが多いです笑。

ゴシップが連帯感を高めるみたいな話は前にも聞いたことがありましたが、ゴシップの「他者の利他性」を推し量るという機能は初めて聞いたので印象的でした。

今度職場でゴシップが出たら、「この人たちは、他者の利他性を推測するという集団の生き残りをかけた戦略を取っているんだ」と前向きに解釈しようと思います(^^)/

*ちなみに、以前紹介したコミュニケーション論の本ではゴシップについては詳しく記載がなかったのですが、うわさ全般のこととか、それ以外のことはいろいろ載ってて面白かったです。

 

感想②:共感について

2種類の共感で思い出したのは、とある研究の論文です。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/mededjapan/47/5/47_322/_pdf

この研究は「医学生や研修医の共感を減少させる要因は何かを明らかにすることを目的とした」、インタビューによる質的研究です。

背景にはこういった事情がありました。
医師が共感的態度を示すことは重要だが、医師は経験を積めば積むほど共感ができなくなる。なぜこうしたことが起こるのか?」

しかし研究の結果わかったことは、
経験を積むと情動的共感は減る代わりに、認知的共感は増える
ということでした。

本書でも対人援助職に重要なのは情動的共感よりもむしろ認知的共感だと書いてあり、
点と点が繋がった感じがしてうれしくなりました。

【観光客の哲学】大切な人を失った後どう生きるか

 
 
こないだ、北海道マラソンに出場した。
僕にとってそこまでの遠出はかなり久々で、マラソン後には少しだけ観光する時間もあった。(結局ほとんどしなかったが)

でも、僕は正直言って観光がそこまで好きじゃない。観光地をただ見るだけだとさほど楽しめない気がする。

でもせっかく行くのに楽しめないのは勿体ない気もする。
なので、旅に関する本を読もうと思った。
「旅+哲学」のキーワードで探していたら、昔買った本書が引っ掛かったので再読することに。

で、ほんとうは北海道に行くまでにブログを書き上げたかったのだが、間に合わなかったので、このタイミングで投稿。


・全体を短めにした要約
・各章ごとの短めの要約
・感想
・メモ(各章ごと詳しめの要約)
の順に書いてあります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

*現実にいる「観光客」そのものではなく、「観光客」をモチーフにして新しい「他者論」を考察している。

全体の要約

観光はふまじめ。政治はまじめ。
政治の外部にあるのが観光。
でも、世界平和には観光が必要だ。たとえ歓迎されなくてもお互いの国を訪問する権利は尊重されるべきだ。

国家(政治、ナショナリズム)と市民社会(経済、グローバリズム)が二層構造に分離した現代、二層をつなぐのは観光客だ。
観光客は、郵便的マルチチュードである。二層構造を連帯しようとして失敗するが、連帯してたような気もする。その錯覚がまた連帯の試みを後押しする。

人間社会にはスモールワールド性とスケールフリー性がある。スケールフリー性はつなぎかえ(誤配・偶然)により生まれるから、誤配をまた試みる郵便的マルチチュードはスケールフリーに対応しうる。

観光客のアイデンティティは家族的連帯である。家族は子ども(偶然)を必然として「憐れみ」を持って引き受け拡張することができる。偶然に囲まれた主体(不能の父)であることで、失われた偶然の傷を新しい偶然で癒やすことができる。

各章ごとの要約

第1章    なぜ観光客の哲学なのか
・観光客論の本質は、新しくないテーマ「他者論」を新しいスタイルで語ることにある。
・観光は近代以降の存在で、それ以前の旅とは大衆性の点で異なる。
・観光客の哲学を考える狙いは3つある。①グローバリズムについての思考の枠組みの構築、②社会を不必要性・偶然性から考える、③ふまじめ・まじめの境界を超えた知的言説の構築。

付論    二次創作との共通点
二次創作と観光は、無責任さ・テーマパーク化において共通点がある。

第2章    観光客の哲学の基礎となる哲学
ヴォルテール:世界にはつねにぼくたちの想像を超えた悲惨な現実があるかもしれず、観光は想像力の拡張と不可分である。
・カント:世界平和には共和制になった国々が連合をつくり、かつ互いの国を訪れる「訪問権」があることが必要である。
ヘーゲル:人間の成熟のためには家族や社会だけでなく、国家が必要である。

・シュミット:政治的判断には友と敵、共同体の内外という二項対立がある。
・コジューブ:人類はポスト歴史において、与えられた環境に自足するだけの、精神的に人間と言えない「動物」になった。
アーレント:人間には公共の場で行う政治的な行為である「活動」が必要。顕名で公共的である存在だけが「人間」の名に値する。
→20世紀の人文学は、大衆社会の実現と動物的消費者の出現を「人間ではないもの」の到来と位置づけ、それを批判した。

第3章    ネーションの二層構造
・人間に身体と精神があるように、国民国家(ネーション)には国家(精神・政治的側面)と市民社会(身体・経済的側面)がある。
【国家】=政治、精神、上半身、思考、ナショナリズム、人間、コミュニタリアニズム
市民社会】=経済、身体、下半身、欲望、グローバリズム、動物、リバタリアニズム、帝国
・現在の国際関係は、市民社会だけが繋がり、国家が繋がらない「愛のない肉体関係」状態である。
ネグリとハートは、帝国(グローバル化を作り上げる政治的秩序)の内部から生まれる帝国の秩序への抵抗運動をマルチチュードと呼んだ。(元々は群衆という意味)

第4章    郵便的マルチチュード
・観光客は、郵便的マルチチュードである。二層構造を連帯しようとして失敗するが、連帯してたような気もする。その錯覚がまた連帯の試みを後押しする。
*郵便:存在しないものが、失敗(=誤配)の効果で存在しているように見え、存在するかのような効果を及ぼすこと
*誤配:宛先にきちんと届かないこと。それによる予期しないコミュニケーションも含む

・人間社会にはスモールワールド性とスケールフリー性がある。スケールフリー性はつなぎかえ(誤配・偶然)により生まれるから、誤配をまた試みる郵便的マルチチュードはスケールフリーに対応しうる。
・具体的指針のヒントとして、目の前にいる苦しむ人に”思わず”手を差し伸べるような「憐れみ」こそが「連帯」の基礎になるだろう。

第5章    家族
・観光客のアイデンティティは家族的連帯である。
・家族には強制性・偶然性・拡張性がある。
・眼の前にいる捨て犬を家族として迎え入れるように、人格性を持たない新生児を家族とみなすように、「憐れみ」は最初から種の壁を超えており、だからこそ人間は家族をつくることができる。

第6章    不気味なもの
・情報技術に囲まれた人類は、不気味なもの(現実と異界の境界が曖昧になること)に囲まれている。
・観光客は、まるでコンピュータの画面を見るかのように、イメージとシンボルの往復運動をしながら「想像的同一化」と「象徴的同一化」を果たす。

第7章    
・チェルヌイシェフスキー:リベラリズム:偽善
・地下室人:ナショナリズム:偽善を暴く快楽
・スタヴローギン:グローバリズムニヒリズム
・アリョーシャ:不能の父:観光客。不能の父は子どもたちに囲まれている。子どもは偶然の存在であるから偶然に失われることもあるが、新しい偶然もまた生まれる。そして新しい偶然が必然の存在になっていく。

感想

僕は、家族のために生きている。
家族がいるから生きていられる、という方が正確かもしれない。

もし家族を失ったらどうなるだろう?と空想することがある。
我ながらなんとも自虐的で悲劇的で不謹慎な空想だが、そういうときになんとなく考えるのが「児童養護施設で働く」という選択肢だ。

児童養護施設のことをちゃんと知っているわけでもないし、児童養護施設にいる子達を失った家族の代わりのように扱うとしたらそれはそれで不適切なのかもしれないけど、でもそうした人たちのケアに携わることができれば、そのことで生きていけるかもしれない。

自分勝手な考え方だなと思っていたけど、「不能の父」であると考えるならそうした別の愛する対象(偶然)なしには人間は悲しみを乗り越えることができないのかもしれない、と思った。

実際に家族を失った方を思い返すと、確かにそうなのかもとも思う。


Kさんは夫亡き後も、息子や近所の方が愛する対象として残っていた。
Hさん家の娘さんは母亡き後も、娘や孫がいた。

愛する人と生きることができた、その思い出だけでその後を生き抜くことができる、という考え方もあるが、思い出だけで生き抜くにはさすがに人生はしんどいのかもしれない。

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以下、長々とメモ

第1部 観光客の哲学
第1章 観光

1.
東は別の書籍で、以下のような主張をしている。
人間が豊かに生きていくためには、特定の共同体にのみ属する「村人」でもなく、どの共同体にも属さない「旅人」でもなく、基本的には特定の共同体に属しつつ、ときおり別の共同体も訪れる「観光客」的なありかたが大切だという主張である。    kindle位置72

ただし、似たような主張はありふれており、例えば柄谷行人も、「共同体」には外部からやってくる「他者」が必要なのだと主張している。

とはいえ、古代ギリシア以来、新しいものなどないのが哲学である。
だから、観光客論の本質は、新しくないテーマを新しいスタイルで語ったところなのかもしれない。


左翼的・文化的・政治的・ロマンティックな「他者」という言葉から、
商業的・即物的・世俗的な「観光」という言葉へ。
しかしそれでも、「他者が大事だ」と主張するのと「観光客が大事だ」と主張するのとでは、ニュアンスは大きく異なる。そして本書は、まさにそのニュアンスの差異がいま重要だと考え、その差異の意味を理論的に基礎づけるべく書かれた本である。    kindle位置95

本書が執筆された2016-2017年にかけて、ブレクジット、アメリカファーストを掲げるトランプ大統領の誕生などの出来事があった。「他者とつきあうのに疲れた」時代に、「他者を大事にしろ」と言っても響かない。なので他者の代わりに「観光客」という言葉を用いる。
観光客から始まる新しい(他者の)哲学を構想する。これが本書の目的である。 kindle位置120

2,
観光とはなにか。
観光という言葉は、英語のtourismの訳語である。
tourという言葉が旅行の意味を持つようになったのは17世紀半ば頃。
つまり、観光は近代以降の存在である。
旅はむかしから存在した。巡礼も冒険もむかしから存在した。けれども観光は近代以降の社会にしか存在しない。 kindle位置201

観光と、それ以前の旅の違いとは、大衆性である。
昔の旅は、一部の富裕層のものだった。
産業革命で労働者階級が力を持ち、彼らの生活に余暇が生まれることで、観光が生まれた。
余談:19世紀頃、パリやローマに行くイギリス人観光客が、よくメディアの物笑いの種になっていた。現代、日本に来る中国人観光客を笑う構図と一緒である。

そのような観光がますます世界を覆うことで、世界はどう変わるのか。
そのような問いに答えた学問は少ないし、答えていたとしても否定的な見解ばかりである。東はその壁を壊したい。

3.
その前に、観光客の哲学を考えることの3つの狙いを述べる。

グローバリズムについての新たな思考の枠組みを作りたい
世界は急速に均質に「フラット」になりつつある。
観光客の急増はこの変化と切り離せない。
 観光客の哲学的な意味を問うとは、この「フラット化」の哲学的な意味を問うということに等しい。    kindle位置372

②人間や社会について、必要性(必然性)からではなく不必要性(偶然性)から考える枠組みを提示したい
観光は不必要なものである。
観光が生まれた頃、遊歩者も出現した。遊歩者とは、パサージュ(ショッピングモールの起源となった建築)をぶらぶらと無為に歩く人々である。

そして、観光客は、観光地をまさに遊歩者のように入っていく人々である。
観光客は、世界のすべてをパサージュ(ショッピングモール)のようにまなざす
ウィンドウショッピングをする消費者のように、たまたま出会ったものに惹かれ、たまたま出会ったひとと交流をもつ。だからときに、訪問先の住人が見せたくないものを発見することにもなる。    kindle位置406

③まじめとふまじめの境界を超えたところに、新たな知的言説を立ち上げたい
学者は「まじめ」なことを考えるが、観光は「ふまじめ」な問題である。
しかし例えばテロは「まじめ」に語るべき問題だが、観光と非常に近い部分がある。

テロリストは観光客に偽装するし、ときに観光地を襲う。とても「まじめ」な重大な問題である。しかしテロリストの動機をたどると、たとえばイスラム国(ISIL)がハリウッド映画のような過度に編集された処刑動画を作り、それに感化されてテロをしていたりと、とても「まじめ」とはいえない「ふまじめ」な動機が見つかったりする。

政治は「まじめ」と「ふまじめ」を峻別する行為だが、テロリストは政治だけではうまく捉えることができない。観光客の哲学を用いて、それを打破したい。

付論 二次創作

二次創作とは?
マンガやアニメから、一部のキャラクターや設定だけを取り出し、「原作」から離れて自分の楽しみのためだけに別の物語を作り上げる創作活動のことである。    kindle位置578

二次創作は、観光と似ている。
両者に共通するのは無責任さである。観光客は住民に責任を負わない。同じように二次創作者も原作に責任を負わない。
(中略)
さらに踏みこめば、観光も二次創作もともに、最初は嫌われるにもかかわらず、時間が経つにつれ受け入れられ、いつのまにか住民や原作者の経済がそれなしには成立しなくなってしまう、そういう皮肉な過程があるところも共通している。 kindle位置599

さらに、二次創作と観光は、テーマパーク化している点においても共通点がある。
現代の消費環境においては、最初に原作があって、つぎに二次創作が来るのではない。原作者は最初から二次創作について考え抜いている。だとすれば、同じように、最初に「素朴」な住民がいて、つぎに観光客が来るという順序もじつは転倒しているのではないか。否、むしろ、いまはあらゆる場所が、観光客の視線をあらかじめ内面化し、町並みやコミュニティをつくるように変わってしまっているのではないか。言い換えれば、すべてがテーマパーク化しているのではないか。 kindle位置662


第2章 政治とその外部

本章では観光客の哲学の基礎固めのため、幾つかの哲学者が紹介される。

1.
ルソーによると、「人間は人間が好きではない。人間は社会をつくりたくない。にもかかわらず人間は現実には社会をつくる。」

2.
ヴォルテールは「カンディード」においてライプニッツの最善説を批判した。
最善説とは、簡単にいえば、「最善である神が作ったこの世界は最善のはずだ。現実に苦しむ人がいたとしても、それは神の計り知れない配慮において必ず最善につながり救済につながっている」という考え方。
ちなみに、最善説は進化論にも影響している。進化論は、いま現存する生物相(=現実)こそが、長い淘汰の結果として生まれた最善の生物相であるはずだ、という信念に支えられている。

ヴォルテールはこれを批判し、世界は「まちがい」に満ちていると訴えた。
ヴォルテールは「カンディード」において、主人公に世界旅行をさせたが、ヴォルテール自身はヨーロッパの外に出たことがなく、すべては想像の産物である。
彼は、最善説を否定するにあたり、悲惨な個々の現実を突きつけるのではなく(というのも、そのような事例の列挙はたやすく最善説に回収されるので)、むしろ、世界旅行という思考実験を導入することで、世界にはつねにぼくたちの想像を超えた悲惨な現実があるかもしれないという、その可能性一般を突きつけようと試みたのである。 kindle位置985
観光が、知識の拡張というよりも、むしろ想像力の拡張と不可分であるという点において、このヴォルテールの指摘は重要である。

3.
カントは「永遠平和のために」において、永遠平和には3つの条件が必要だと記している。
①各国が共和制であること
*共和制:専制君主が存在せず、大統領など国民が選んだ人物が統治する体制。⇔君主制
**民主制とは異なる:国民一人一人が政治に参加すること。⇔独裁制

②共和制になった各国が合意の上で上位の国家連合をつくること
世界市民互いの国を訪れる「訪問権」があること(歓迎されるかは別)

つまり、カントは①②だけでなく③が平和のためには必要だと考えた。
カントの時代にはまだ観光はなかったが、東は観光の権利と読み替え可能だと考える。

①②だけだと、共和国でない国は国際秩序から排除してよい/するべきだとなりかねない。
実際イラク北朝鮮(ロシアや中国も?)などはアメリカ中心にそのようにみなされている。

そこで③である。
観光客は、ただ自分の利己心と旅行業者の商業精神に導かれて、他国を訪問するだけである。にもかかわらず、その訪問=観光の事実は平和の条件になる。それがカントが言いたかったことではないか。    kindle位置1118
例えば、中国や韓国と日本は重大な政治的問題を常に抱えているが、それとは関係なく互いに観光客の行き来があり、それが関係悪化の抑止力になっているかもしれない。

4.
ヴォルテールもカントも、ともに単線的な歴史への抵抗という点で共通している。
そして、カントの③にあったような観光客の亜政治的な可能性について、東はシュミットの「政治的なものの概念」を参照する。

シュミットによれば、抽象的な判断には、必ずその判断の基礎となる固有の二項対立がある。
美学的な判断は美と醜の二項対立、倫理的な判断は善と悪の二項対立、経済的な判断は益か損かの二項対立がある。それらの対立は独立していて、例えば「美」だが「悪」だとか、「善」だが「損」だということはよくあることである。

そして、政治的な判断には、「友」と「敵」の二項対立がある、とシュミットは考えた。
この場合の友と敵とは、共同体の内か外かということである。
戦争のような極限状況において、友を守るために敵を殲滅する判断を下す。それがシュミットの考える政治の本質である。そしてその判断には、美醜、善悪、損益といった別の二項対立は関わってはならない。    kindle位置1192

5.
カントとシュミットの間の時代に活躍した哲学者に、ヘーゲルがいる。

ヘーゲルによれば、人間はまず家族のなかで私的な存在として生きる。
つぎに社会に出ると、言語や貨幣などを介して公的な存在として生きなければならなくなり、公私に引き裂かれる。
そして最後に国家に所属し国民になることで、公的=国家的な意志を私的な意志として内面化し、成熟した精神に到達する。
人間がきちんとした人間になるためには、家族の一員であること(即自)や、市民社会で他者に触れること(対自)とは別に、なんらかの上位の共同体に属すること(即自かつ対自)が絶対的に必要だと、ヘーゲルはそう考えたのだ。 kindle位置1273

シュミットの友敵理論は、政治とはまさにこの国家を存続させるためにあるのだと述べている。そしてこの理論は現在のグローバリズムを批判する文脈でも転用可能である。端的に言えば、グローバリズムは友敵の区別を抹消し、政治そのものを抹消してしまうということである。
国家が存在しなくなったら、政治は存在しなくなる。政治が存在しなくなったら、人間は人間でなくなってしまう。シュミットは、人間が人間であるために、グローバリズムを拒否するのだ。 kindle位置1314

本書の観光客の哲学にとって、友敵理論は重大な障害である。これを乗り越えなければいけない。
近代思想は、人間は友敵の対立をくぐらないと成熟しないと述べた。だとすれば、ぼくたちは、観光客の哲学を設立するために、その対立をくぐらない別の成熟のメカニズムを探る必要がある。 kindle位置1346

6.
その課題に取り組む前に、友敵理論と観光客の哲学の対立関係を多角的に捉えるために、2人の思想家を参照する。

アレクサンドル・コジューブは「ヘーゲル読解入門」で、人類が与えられた環境に自足してしまった、精神的には人間とは言えない状態になった後の歴史、ポスト歴史について考えた。    
ポスト歴史においては、もはや人間は存在せず、そこにいるのは「動物」である。
戦後のアメリカに生きているのは、誇りを失い、他人の承認も必要とせず、与えられた環境に自足して快楽を求め商品を買っているだけの動物的な消費者の群れでしかない。 kindle位置1405    
 
そしてこの指摘は、シュミットの考えと類似している。
シュミットもコジェーヴもともに、人間と人間の生死を賭けた闘争がなくなり、国家と国家の理念を賭けた戦争が解消され、世界がひとつになり消費活動しか存在しなくなった時代における人間の消失を問題にしている。シュミットはそれを政治の喪失(自由主義化)と呼び、コジェーヴは歴史の終焉(動物化)と呼んだkindle位置1425

国家を離れ、民族を離れ、他者の承認も歓迎も求めず、個人の関心だけに導かれてふわふわと行動する観光客は、まさに「動物」である。

7.
もう一人は、ハンナ・アーレントである。
アーレントもまた、「人間の条件」にて人間には人間として生きるための条件があり、それは「活動」である、と考えた。

アーレントは、人間が行う社会的な行為を、活動・仕事・労働の3つに分類した。
(仕事は人工的な世界を作り出す行為、例えば何らかのものづくりが相当する)

活動は、公共の場で演説したり他人と議論する、といった政治的な行為。
労働は、人間の生物学的規定に対応する行為、つまり身体の力だけが問われる行為。コンビニのバイトなど。

この2つは行為者の「固有名性」の点で大きく異なる。
活動は、誰が行うのかがとても重要で、「顔」や「名前」が問われる。
一方で労働は、誰が行うかは問われず、顔のない「生命力」が売買されている。

また、「他者」「公共性」の有無も重要である。
活動は、聴衆のない演説があり得ないように、他者が必須である。それは公共の意識にもつながる。
他方で労働は、他者がいない。コンビニ店員が客と接してたとしても、それは「生命力」の宛先になっているだけで、他者として現れているわけではない。労働は本質的に私的な経験である。

顕名で公共的である存在だけが「人間」の名に値する。匿名で私的な存在はその名に値しない。 kindle位置1501
そして、アーレントは後者を「労働する動物」と呼ぶ。

このように、シュミットもコジューブもアーレントも、経済合理性だけで生きる社会を批判した。
二〇世紀の人文学は、大衆社会の実現と動物的消費者の出現を「人間ではないもの」の到来として位置づけた。 kindle位置1550
 

第3章 二層構造

1.
前掲したヘーゲルとカントをもう一度参照する。
ヘーゲルは、国家を市民社会の自己意識だと捉えた。市民社会はただ目の前のニーズに駆動されて生きるだけだが、国家によってアイデンティティが加わる。
カントは、国家をひとつの人格として捉えた。カントは共和制になった各国が合意の上で上位の国家連合をつくることを平和の条件の一つとして挙げたが、これは要は共和制ではない国は子どもで、共和制となり大人になるとようやく社会に入れるのだと述べている。

この2つを組み合わせると、人間に身体と精神があるように、国民国家(ネーション)には国家(精神・政治的側面)と市民社会(身体・経済的側面)があるというイメージが導かれる。これはとてもナショナリズム的である。
ナショナリズム(英: nationalism)とは、国家という統一、独立した共同体を一般的には自己の所属する民族のもと形成する政治思想や運動を指す用語。 wikipediaより

現代は、トランプなどナショナリズムもあり、一方でグローバリズムでもあるという分裂の時代である。この分裂はどのように説明すれば良いのか。

国家=政治、精神、上半身、思考、ナショナリズム、人間
市民社会=経済、身体、下半身、欲望、グローバリズム、動物

このように整理すると、ネーションのうち、国家は境界を持ちナショナリズム的だが、市民社会は境界なく繋がりグローバリズム的だと言うことができる。
現代では、ナショナリズムグローバリズムというふたつの秩序原理は、むしろ、政治と経済のふたつの領域にそれぞれ割り当てられ重なり共存している。ぼくはそれを二層構造の時代と名づけたいと思う。 kindle位置1832

そして現代の国際関係は、「愛のない肉体関係」とも表現できる。
下半身はつながっているのに、上半身はつながりを拒む時代。それが二層構造の時代の世界秩序だが、最後に、さらに下品との非難を浴びるのを承知のうえで連想を進めるとすれば、この時代においては、国民国家(ネーション)間の関係は、しばしば、愛を確認しないまま、肉体関係だけをさきに結んでしまったようなものになりがちだと言うことができるのかもしれない。 kindle位置1853 
政治的信頼関係のないまま経済的依存関係を深めてしまったのは、軽率で不純かもしれない。とはいえ関係が切れないのであれば、愛を育てるしかない。

2.
リベラリズムは「現在のアメリカでは、人格的な自由こそ尊重するが、富の再配分を重視して経済的な自由はむしろ制限する、(中略)福祉国家支持の立場(kindle位置1889)」を意味している。そして、リベラリズムの批判として、リバタリアニズムコミュニタリアニズムが生まれた。

リバタリアニズムは、「諸個人の自由を最大限重視し政府による強制を最小限にとどめるべきだという、社会倫理や政治思想上の見解(kindle位置1881)」である。
リバタリアニズムの考える国家は、個人がともに生きるための最低限の調整装置である。
リバタリアンの「国家」は、政治=人間の層というよりも、むしろ徹底して脱政治的な、経済=動物の層に属するメカニズムとして考えられているのである。 kindle位置1994

コミュニタリアニズムは、「普遍的な正義より共同体の善を重視する社会倫理上の立場(kindle位置1924)」である。リベラリズムは普遍的な正義を信じるが、コミュニタリアニズムはそれを信じない。
リバタリアニズムグローバリズムの思想的な表現で、コミュニタリアニズムは現代のナショナリズムの思想的な表現である。そしてリベラリズムは、かつてのナショナリズムの思想的な表現である。 kindle位置1956

3.
アントニオ・ネグリマイケル・ハートの提唱した「マルチチュード」を参照しつつ、観光客の哲学を提示する。

ネグリとハートは、グローバル化が進む冷戦後の世界を「帝国」と呼んだ。
帝国とは、グローバルな経済的あるいは文化的な交換をスムーズに機能させるため、国民国家とは別に、国家と企業と市民がともにつくりあげる新たな政治的秩序を意味している。本書の言葉で言えば、「国民国家の体制」はナショナリズムの層に、「帝国の体制」はグローバリズムの層に相当すると考えてよいだろう。 kindle位置1983

国民国家の体制と帝国の体制では主要な権力の質が異なる。
前者では規律訓練、後者では生権力である。
前者は権力者が懲罰を与えることで対象者を動かす。
後者は規則や環境などを変えることで、対象者の自由意志を尊重しつつも、権力者の目的どおりに対象者を動かす。

4.
マルチチュードとは、もともとは多数性を意味する言葉である。群衆・衆愚などとも呼ばれる。
ネグリとハートはそれを、帝国の内部から生まれる帝国の秩序そのものへの抵抗運動(対抗帝国)を広く指す言葉として捉え直した。

要はマルチチュードとは反体制運動のことだが、これはグローバルに広がった資本主義を拒否せずに、むしろ利用する。アラブの春などのようにインターネットを活用する。

そしてマルチチュードは、二層構造を横断する運動、政治の層と経済の層のあいだをつなぐ可能性として構想されている。マルチチュードは政治と経済を分離しない。
マルチチュードは自分の生(オイコス)から運動を始める。労働や生活の現場から運動を始める。そして帝国の批判にいたる。 kindle位置2125

ただし、ネグリとハートのマルチチュードの理論には、このマルチチュードがどのように政治を動かすのか?という戦略論が欠けている。
それには大きく理由が2つある。
マルチチュードは、第一に、帝国の内部で、帝国自身の原理から生みだされる反作用だと考えられていた。そして第二に、多様な生を多様なまま共通点なくして連結する、「否定神学的」な連帯の原理に依存するものだと考えられていた。 kindle位置2377
要は、マルチチュードが生まれる理由や、生まれた後の拡大の論理が不明確だった。

第4章 郵便的マルチチュード

1.
東は自身の著作「存在論的、郵便的」で、「郵便」「誤配」という概念を提示する。
それに対して「郵便」は、存在しえないものは端的に存在しないが、現実世界のさまざまな失敗の効果で存在しているように見えるし、 またそのかぎりで存在するかのような効果を及ぼすという、現実的な観察を指す言葉である。 kindle位置2392
そしてその失敗を、「誤配」と呼ぶ。(宛先にきちんと届かないことで生じる、予期しないコミュニケーションの可能性も含む)
例えば、郵便論的には、神は存在しないが、存在しているように見えるし、現実に存在するかのような効果を及ぼす、と考える。

そして、この「郵便」を用いて「郵便的マルチチュード」の概念を考える。
観光客こそが、その郵便的マルチチュードである。kindle位置2401)」と東は定義する。
観光客は、群衆・衆愚などと呼ばれる「マルチチュード」である。
また、観光には、予期しないコミュニケーションが多く含まれ、その意味で「郵便的」である。
ひとがだれかと連帯しようとする。それはうまくいかない。あちこちでうまくいかない。けれどもあとから振り返ると、なにか連帯らしきものがあったかのような気もしてくる。そしてその錯覚がつぎの連帯の(失敗の)試みを後押しする。それが、ぼくが考える観光客=郵便的マルチチュードの連帯のすがたである。 kindle位置2438

2.
誤配の発生機序や力学を説明する数学的モデルを提示する。

ネットワーク理論によると、人間社会(人間社会が含まれる「複雑ネットワーク」一般)は、「大きなクラスター係数」「小さな平均距離」「スケールフリー」という三つの特徴を備えているとされる。

クラスター係数
あるネットワークにおいて、理論的に成立可能なクラスターのうち、実際にどれほどのクラスターが成立しているかを表す指標。
クラスター=群れ、仲間。3つの頂点が枝でつながり三角形になった状態。

(図2)

家族や地域、職場など、人間関係の三角形がいくえにも重なった中間集団(共同体)がいくつも存在し、社会はそれらがさらに重なることで成立しているのである。二一世紀の科学は、その状況を「クラスター係数が大きい」と表現する。 kindle位置2511

・平均距離
頂点と頂点を結ぶ最小の枝の数。図2で言うと、点AとEの距離は3。
人間社会は、あらゆる人から人が、わずか6つの友人関係を経由することで辿り着けることが確認されていて、平均距離が非常に小さい。

(図3)
図3a:一次元格子グラフ。全ての頂点が同じ数の枝を隣の隣の点まで伸ばしている。
図3b:図3aの枝を特定の確率で別の頂点に「つなぎかえ」たもの。
図3c:ランダムグラフ。頂点の連結が無作為に決定されている。


人間社会はすべての人間が直接繋がっているわけではないが、図3bのような「近道」が時々存在することで、小さな平均距離が実現している。
ネットワーク理論では、大きなクラスター係数と小さな平均距離をあわせ「スモールワールド性」と呼ぶ。
(前略)みな基本的には仲間のなかに閉じこもっているのだけど、ときおり(確率的に)閉じた関係のなかに見知らぬ他人が侵入することがあり(つなぎかえ)、その新たな出会い(近道)こそが世界を一気に狭くする、そのような人間関係である。 kindle位置2591

・スケールフリー
図3aではすべての頂点で次数(頂点に接続する枝数)が同じだったが、図3bはつなぎかえの結果として次数に偏りが生じている。
次数に大きな偏りのある不平等なネットワークが、スケールフリーのネットワークである。

スケールフリー性は、ネットワークに新しい頂点が加わる(成長)ときに、新しい頂点が接続先として高い次数の頂点を優先しやすい(優先的選択)により生じる。
人間社会は、年収やフォロワー数など様々な面でスケールフリー性がみられるが、これは決して搾取の結果ではなく、偶然の選択の結果である。
理論は世界の富の偏りは予測できるが、だれが富むのか、だれが貧しくなるのかは予測できない。富の偏りは、一部の富めるものがつくるのではなく、ネットワークの参加者ひとりひとりの選択が 自然に、しかも偶然に基づいて つくりだしていくのだ。 kindle位置2730

4.
以上の数学理論を、(リスクはあるが)哲学に転用する。

人間社会には、スモールワールド性とスケールフリー性がある。
しかし、だとすれば、それは、ぼくたち人間が、 同じ社会をまえにしてそこにスモールワールド性を感じるときとスケールフリー性を感じるときがあることを意味しているのだ と、そのように解釈することができないだろうか。 kindle位置2805
 
ぼくが本書で提案する観光客、あるいは郵便的マルチチュードは、スモールワールドをスモールワールドたらしめた「つなぎかえ」あるいは誤配の操作を、スケールフリーの秩序に回収される 手前 で保持し続ける、抵抗の記憶の実践者になる。 kindle位置2860

5.
人間社会の物語を、下記のように強引に神話風に語ることができる。
原始的な格子グラフは、枝の確率的なつなぎかえによってスモールワールドグラフへと変わる。共同体は市民社会へと変わる。けれども、社会を社会たらしめた誤配あるいは確率は、すぐに優先的選択(資本)へと変質し世界に圧倒的な不平等をもたらすのだ。 kindle位置2960

このグローバリズムの不平等への抵抗として、その外部にあるナショナリズムに根拠を求めるか、グローバリズムの内部から生まれるマルチチュードに夢を託すか。それ以外の第3の道を提示したい。

スケールフリーはつなぎかえ(≒誤配)により生まれる。
それなら、誤配を演じ直すことにより、スケールフリーが偶然であることを思い起こさせることが、抵抗運動の基礎にあるべきではないか。
出会うはずのないひとに出会い、行くはずのないところに行き、考えるはずのないことを考え、帝国の体制にふたたび偶然を導き入れ、集中した枝をもういちどつなぎかえ、優先的選択を誤配へと差し戻すことを企てる。 kindle位置2946

具体的な行動の指針は指し示せないが、そのヒントとしてローティの「偶然性・アイロニー・連帯」を参照する。
現代では、たとえば宗教を私的に信じるのは自由だが、公的なものとして他人に矯正はできない。本来宗教は普遍的なもののはずなのだからこれは矛盾しているのだが、その矛盾を現代人は受け入れなければいけない。

ではそのような普遍的な価値なしに、人々はどう連帯するのか?それは憐れみだとローティは言おうとしたのではと、東は分析する。
たまたま目のまえに苦しんでいる人間がいる。ぼくたちはどうしようもなくそのひとに声をかける。同情する。それこそが連帯の基礎であり、「われわれ」の基礎であり、社会の基礎なのだとローティは言おうとしている。 kindle位置3032

ーーーーーーーーーーーーー

第2部 家族の哲学(序論)

第5章 家族

1.
グローバリズムのなかに生きるビジネスマンは個人を拠り所に生きる。
ナショナリズムのなかに生きる市民は国民国家を拠り所に生きる。
ではその二層を横断する観光客は何を拠り所に生きるのか?
観光客のアイデンティティは家族なのでは、と東は考える。

ただしこれは家族そのものと言うより家族的な連帯である。

2.
家族の概念を脱構築するうえで、論点を3つ提示する。

①強制性
家族は自由意志ではそう簡単に出入りできるものではない。
趣味のサークルは出入り自由だから、そのために命をかける人はそうそういない。アイデンティティにはならない。
でも家族は、命をかけるに値しうる。アイデンティティとなりうる。

②偶然性
同じ親から生まれるにしても、違う精子卵子が結合していたら、別の子が生まれる。
「この子」が生まれるのは偶然である。
この点において、すべての家族は本質的に偶然の家族である。言い換えれば、家族とは、子の偶然性に支えられたじつに危うい集団なのである。 kindle位置3318

③拡張性
日本の「イエ」は、(現在の核家族のイメージとは異なり)血縁よりも経済的な共同体を重視し、養子縁組によってかなり柔軟に拡張が可能な組織だったと言われている。
また、家族とみなすかどうかは、ときに私的な情愛により決められている。
それにより、家族の拡張性が生まれ、同時に境界が曖昧なものになっている。
例えば、現代ではペットを家族と呼ぶ人が増えている。

功利主義者のピーター・シンガーは「実践の倫理」で、類人猿に部分的な人権を与えるべきだと主張した。
彼は、平等の原理に基づき、条件を満たした動物には人権を付与すべきだと考えた。それにより彼は動物の生命に序列を持ち込み、翻って人間の生命にも序列を持ち込むことになった。
結果としてシンガーは、オランウータンやチンパンジーの成体のほうが、自己意識を持たない人間の胎児や嬰児よりもはるかに「人格性」が高く、法的に守られるべきだという結論に達し、多くの非難を浴びることになった。 kindle位置3406

シンガーの序列の原理からは、恐らくハムスターやカメレオンに人格性が認められることはないが、現実にはそれらを家族とみなしている人々は大勢いる。
つまり、家族の拡張性は、功利主義的な合理的な思考を超える。
新生児に人格はない。でもぼくたちはそれを愛する。 だから子どもにも人格が生まれる。最初に人間=人格への愛があり、それがときに例外的に種の壁を越えるわけではない。最初から憐れみ=誤配が種の壁を越えてしまっているからこそ、ぼくたちは家族をつくることができるのである。 kindle位置3431
*憐れみ=誤配:合理的な思考からは生まれないということから、(本来の宛先と異なるところに届く)誤配とイコールで結んだのだと思われる。

第6章 不気味なもの

1.
「情報技術の革新性とはそもそもそこで哲学が意味を失うことにあるのではないか、だとすればこの仕事はそもそも無意味なのではないか(kindle位置3544)」という疑いが、本章の出発点となる。

東は20年ほど前の「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」(サイバースペース論)という論文において、「情報技術の本質は不気味なものの経験にある、しかし当時情報社会論で流行していた「サイバースペース」の比喩はそれを取り逃がしてしまう(kindle位置3565)」と主張した。

サイバースペースとは、コンピュータのネットワークを空間として捉える比喩である。
現実にそのような空間はないが、フロンティアを失ったSF作品に重宝された。
また、この言葉には資本主義(アメリカ)の新しいフロンティアとしての政治的な含意も帯びた。

2.
情報技術が現実を変容させた本質は、サイバースペースではなく、「不気味なもの」という概念で説明できる、と東は主張した。

「不気味なもの」はフロイトが書いた論文のタイトルで、フロイトによれば、「不気味さの本質は、親しく熟知しているはずのものが突然に疎遠な恐怖の対象に変わる(たとえば身近な親族が幽霊になるなど)、その逆転のメカニズムにある。(kindle位置3721)」

東は現実と異界の境界が曖昧になることを「不気味なもの」と表現している

3.
情報技術社会の主体は、不気味なものに囲まれた主体である。
それはどういうことなのか、精神分析の知見を活かした図式化を紹介する。

ラカンによれば、人間の主体は「想像的同一化」と「象徴的同一化」の二重化により構成される。
想像的同一化:目で見る像への同一化。映画で言うと、観客がスクリーンを眺め、俳優に憧れるようなもの。
象徴的同一化:世界の背後にある大文字の他者への同一化。映画で言うと、映画監督の視点を追いかけるようなもの。
ひとは、両親なり教師なりをまねるだけでは(想像的同一化だけでは)大人になれない。彼らがなぜそのようなふるまいをするのか、そのメカニズムを理解すること(象徴的同一化をすること)ではじめて大人になる。 kindle位置3888

サイバースペースなき情報社会の主体について考えることは、大文字の他者が弱体化した主体について考えることである。
映画で言えば映画監督が存在しない状態。コンピュータのインターフェイス画面を想像してみると、像の奥に映画監督のような存在はいない。

(図1)

ニコニコ動画の放送をイメージすると、出演者(イメージ)と視聴者のコメント(シンボル)が同時に映し出される。
視聴者はときに出演者に同一化してしまうかもしれないが(想像的同一化)、しかし同じ画面にはたえずコメントが流れ、そちらを読むとこんどは大文字の他者ならぬ視聴者の無意識に同一化することになり(象徴的同一化)、出演者への素朴な感情移入は壊れてしまうことになる。 kindle位置3966

観光客は、まるでコンピュータの画面を見るかのように、イメージとシンボルの往復運動をしながら「想像的同一化」と「象徴的同一化」を果たす。

そして、コンピュータのインターフェイスの奥に隠された弱体化した大文字の他者とはソースコード(暗号)であり、これはまさに不気味なものである。
(前略)観光客の視線とは、世界を写真あるいは映画のようにではなく、コンピュータのインターフェイスのように捉える視線なのではないだろうか?    そこにはイメージもあればシンボルもあり、そして解読しなければならない暗号もある。 kindle位置3996
 

第7章 ドストエフスキーの最後の主体

前述したとおり、テロと観光は密接な関係にある。
そしてドストエフスキーは、テロを扱った作品が多い。
彼の作品の変遷を追っていく。

チェルヌイシェフスキーの「何をなすべきか」では、社会主義的なユートピアの世界が描かれた。

ドストエフスキーの「地下室の手記」は、それを批判する形で書かれた。
主人公の地下室人はユートピアの偽善を指摘する。
ユートピアの理想に隠された倒錯的な快楽、 正しいことをすることのエロティックな歓びに 気づいてしまっている。だからそれに巻きこまれない権利を主張する。 kindle位置4326
現実でも、リベラルの偽善を指摘する声が、トランプを英雄に押し上げた。

その後書かれた作品の中では、「悪霊」が重要である。
主人公のスタヴローギンはテロリストだが、なににも関心を抱かない「無関心病」状態である。世界への関心が極限まで高まると、それが突然反転し冷淡な無関心に変わることがある。
社会を変えたいと願う人間から、社会を変えるなんて偽善だと顔を赤らめて罵る人間へ、そして社会なんて変わっても変わらなくてもいいから好きなことをやればよいのだとうそぶく人間へ。ドストエフスキー弁証法は、『悪霊』でそのような第三の主体にたどりついた。 kindle位置4384
グローバリズムの中に生きるビジネスマンは億単位の金を指先一つで動かす。他人の運命への無関心さがなければそのようなことは難しい。なのでスタヴローギンはグローバリズム的である。

最後に考えるべき作品は「カラマーゾフの兄弟」だが、実はこの作品は完結していないので、亀山郁夫山城むつみの作品を元にの「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」を元に、その続編を想像していく。

亀山は、続編は皇帝殺し(暗殺)の物語になるのではと予想する。
その主人公は作品の最後に出てきたコーリャという少年で、彼はカラマーゾフの兄弟の一人アリョーシャを父とした疑似家族(結社)を作り、その中で暗殺を試み、そして失敗する。アリョーシャは結社の指導者にもなれず、暗殺計画を止めることもできない「不能の父」である。

さて、「カラマーゾフの兄弟」にはスタヴローギンに相当するニヒリズムの考えを持つ人物として、イワンが登場する。彼は「神がいて、たとえ未来に救済が来ても眼の前にいるこの子どもの苦しみはなくならない」と存在の固有性に関わる問いをなげかけた。

一方、「少年たち」という章ではイリューシャという少女が登場する。
彼女は野犬の一匹をジューチカと名付けて可愛がったが、あるときジューチカを傷つけてしまい、その後ジューチカは姿を消してしまった。病床に伏せた彼女はそのことをずっと気に病んでいて、周りの子がそっくりな犬を探し出して彼女に贈った。新しい犬はペレズヴォンと名付けられ、ジューチカではないことになっているのだが、イリューシャはひとめ見てそれがジューチカだと確信して大変喜んだ。(本当にジューチカだったかはわからない)

イリューシャの話は、イワンの議論への反駁となりうる。
ジューチカがジューチカだったこと、考えてみればそれそのものが偶然だった。そもそもそれは野犬の一匹にすぎなかった。だからぼくたちは、ジューチカが死んだあとも、もういちど ジューチカ的なるもの を求めて新しい関係をつくることができるし、またそうすべきである。それが生きるということであるkindle位置4677
 
ある子どもが偶然で生まれ、偶然で死ぬ。そして、また新しい子どもが偶然で生まれ、いつのまにか必然の存在へと変わっていく。イリューシャの死はそのような運動で乗り越えられる。ぼくたちは、一般にその運動を 家族 と呼んでいる。 kindle位置4701

そのような意味で、子どもたちに囲まれた不能の父は、不能ではあってもけっして無力ではない。
子として死ぬだけではなく、 親としても生きろ。ひとことで言えば、これがぼくがこの第二部で言いたいことである。 kindle位置4734
親であるとは誤配を起こすということ、偶然の子どもたちに囲まれるということである。

リベラリズムの偽善を乗り越え、ナショナリズムの快楽の罠を逃れたあと、グローバリズムニヒリズムから身を引きはがし、ぼくたちは最終的に、子どもたちに囲まれた不能の主体に到達するのだ。それこそが観光客の主体である。 kindle位置4609