現代は秩序を強化する方向にある。
現代思想は秩序強化に警戒心を持ち、秩序からのズレ=差異に注目する。
二項対立があったとき、ある価値観を背景にすると、一方がプラス、もう一方がマイナスとみなされる。
その二項対立や価値観を徹底的に疑い、脱構築を試みるのが現代思想である。
パロール(話し言葉)とエクリチュール(書き言葉)の対立を考える。
パロールは直接的で、本質的で、現前性(目の前に本物がある)がある。
エクリチュールは間接的で、元のものから離れているために誤配・誤解の可能性がある。非本質的。
パロールの方が優越性を持つとみなされがちだけど、どちらにもそれぞれの良さがある。ただし、それはどっちもどっちという相対主義ではない。
優柔不断なのはいけない。責任をもって決断しなければいけない。どっちつかずの態度でいると、人に振り回されることになる。大人になるというのは、決断の重さを引き受けることだ。
というツイートが本書内で紹介されている。
人に振り回される=自分が自分でなくなる=間接的=エクリチュール
責任をもった決断=直接的=パロール
重要なのは、「未練込みでの決断をなす者こそが大人」だということだ。
我々は確かに、生きていくうえで決断をせざるをえない。広い意味で暴力的であらざるをえない。ただし、決断は完全固定ではなく仮固定である。
また、未練とは他者性への配慮のことである。決断で選ばなかったもう一方への思いを残しておくことである。
一般的な二項対立は、同一性が先、差異が後である。
私と自転車はそれぞれ同一性をもつ個物として存在し、関係性としての差異は後である。
しかしドゥルーズはその関係性を逆転し、差異が先、同一性が後と考える。
物事の背部の諸々の関係性(バーチャル、生成変化)が先にあり、仮固定としての同一性(アクチュアル、出来事)は後だと考える。
酸塩基平衡のような動的平衡のようなイメージだろうか。
また、ドゥルーズは存在はすべてが繋がりあうリゾーム的な関係性でありながら、同時にあちこちで途切れている(非意味的切断)とも述べた。
関係と無関係のバランスが大事である。
社会には、多数派を正常とみなし、そうでないものを異常とみなし排除しようとする動きがある。異常をマイナスとみなし早期介入することは、マジョリティに適合させるためのケアという側面も否めない。(例:発達障害等)
近代は自己監視のパノプティコン的社会で、規律訓練により人民が内的に自律することを求めた。
現代は生政治的で、人々を集団・人口として扱おうとする。(例:ワクチンなど)
秩序(アポロン) |
混乱(ディオニュソス) |
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同一性 |
差異 下部構造 |
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形相(かたち) |
質料(素材) |
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理想の形=イデア |
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意識 |
無意識(性的エネルギー) |
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必然 |
偶然 |
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物語化 |
他者=コントロールできない |
精神分析は構造を見る。色々しゃべってもらうことにより症状(=物語=固定されたもの)が解きほぐされる。
マルクスは搾取されない、より自律的な力(ディオニュソス的な)の発揮ができないかを考えた。
まとまっていない認知のエネルギーを制限するのが、人間の発達
認知エネルギーは自由に流動する=欲動
制限とは有限化。母と一体でい続けられない不安、戻ってきたときの喜び。死の偶然性と隣り合わせの快=享楽。
邪魔するものが父であり、父の介入が去勢。
母の代理としての欲望の対象が「対象a」だが、本当の満足は決して得られない。