家庭医療専門医の勉強記録

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【ふつうの相談】



家庭医の界隈で結構話題になっていた本。
ライトな本かと思ってたら、予想外に骨太本だったのでまとめてみることに。

著者は、臨床心理士の東畑さん。
「居るのはつらいよ」など多数著作あり。



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要約

ふつうの相談とは、ありふれたケアである。

その最も原初的なものをふつうの相談0とする。ふつうの相談0は、(クラインマンの言うところの)民間セクターで行われるケアである。熟知性(相手をよく知っていること)を通じて相手を知り、世間知(≒一般常識)を説明モデルとすることで相手を理解し対応する。このとき相手の苦悩は(中井久夫が言うところの)個人症候群のレベルで取り扱われる。

ふつうの相談0は原石であり、相談を受ける人の状況に応じてそれが精錬される。精錬には2つの方向がある。
1つはそれぞれの学派の理論である学派知(精神分析など)。学派知は切れ味が鋭く、だからこそ有効なこともあるが却って有害なこともある。
もう1つはそれぞれの現場の常識としての現場知。制度などの硬い現場知と、その現場を利用するユーザーの傾向に応じた柔らかい現場知とがある。現場知は、その現場では有効だが、しばしば一般社会での非常識になる。
この2つを組み合わせたものが、あなたにとってのふつうの相談(ふつうの相談A)である。

*専門家は、専門的な知識を現場に応じて応用する、と考えがち。
しかし、実は本当は逆で、素人的な、ふつうの相談0が先にあり、そこから派生して学派知や現場知が生まれている。

世間知、学派知、現場知はそれぞれ有効な場面と有害な場面があり、臨床家にはその3つの知をメタに見て使いこなす「臨床知」が必要である。

感想

この本は、あくまで「心のケア」としてのふつうの相談に焦点が当てられているが、身体面においても同じことが言えるのではと思った。

たとえば、運動後の息切れ。「普段から運動不足なんじゃないですか。急に運動しないでちょっとずつ慣らしたほうがいいですよ」というのがふつうの相談的な対応である。(臨床現場でもこうしたアドバイスをすることは少なくない)

でも、顔色が悪かったり、酸素飽和度の数値が低かったり、その人が基礎疾患持ちだったりすることを知ってたりすれば、「心不全だろうか、喘息だろうか。誘引は感染症心筋梗塞だろうか。色んな可能性を考えつつ検査をオーダーして、搬送の準備もして・・・」と専門知モードになるかもしれない。

考えてみれば、身体症状だって元々はふつうの相談で対処していて、それじゃどうにもならない場面があったからこそ、医学が発展してきたのだろう。

そして医学知(本書で言う学派知)は言うまでもなく有効な場面も多いが、有害なこともある。

だから、メタ的な視点が重要なんだなぁといつもの結論に落ち着いた。


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(以下、詳細メモ)

序論

仕事の悩み、友人関係の悩み、学業の悩み、恋愛や家族関係の悩み、そうしたことを相談され、それに答える。

専門家だけでなく、家族や同僚・友人たちの間でも交わされているそんな「ありふれたケア」、それを本書では「ふつうの相談」と呼ぶ。
ふつうの相談とは何か。それはいかなる形をしていて、いかなる構造によって成り立っているのだろうか。これが本論の問いである。    16p
 
◯2つの心理療法
心理療法論は大きく2つに分けられる。
①学派的心理療法論。
精神分析ユング心理学認知行動療法など。
特徴:体系性。
一貫した心理学理論、フォーマットとなる技法、それを習得するための訓練システム。

②現場的心理療法論。
「〇〇現場で活かす〇〇療法」という本などが当てはまる。
それぞれの現場に適した心理療法論。
特徴:折衷性。
現実的な妥協を肯定する。

◯冶金(やきん)スキーム
2つの理論の関係を、フロイトは「純金」と「合金」に喩えた。
①が純金、現場の要請から他の要素が入り混じる②は合金。
純金は、様々な現場で応用されるために合金となる。

(22p)

◯ふつうの相談の位置
ふつうの相談の位置づけには2つの答え方がある。

①冶金スキームの最も周縁部
ふつうの相談には専門性をかなり薄めたようなある種の「素人性」がある。
専門家から見れば、ふつうの相談は冶金スキームのごく一部に過ぎないように見える。

②最もありふれていて、中心的なもの
しかし、実際は「ふつうの相談」は最もありふれたケアである。
図2で言うと、花弁の外側にふつうの相談の広大な草原が広がっている。

その全体像を掴むには、冶金スキーム(専門家的視点)から脱して、俯瞰的にみる必要がある。

第1部    〈ふつうの相談〉の形態

ふつうの相談はいかなる形をしているのか。
ふつうの相談はシチュエーションに応じて多様であることが本質だが、本論では著者の文脈を例示しつつ提示する。
*著者は都内でカウンセリングルームを開業していて、精神分析心理療法(以下、セラピー)を専門にしている。

◯〈ふつうの相談〉のアセスメント
色んなクライエントがいる中で、誰をセラピーの対象にし、誰は外部機関に紹介するのか、そして誰が〈ふつうの相談〉の対象となるのか。
①問題の性質、②モチベーション、③社会経済的環境の三点を特に考慮する。

①問題の性質
・緊急性の有無
緊急性が高い場合、精神症状なら医療機関、DVなら警察、などと連携・紹介して、その後をサポートするような〈ふつうの相談〉が選択される。
慢性的な問題であれば、心理療法の適用を考える。

・問題がクライエントの外側にあるか内側にあるか
たとえば子育ての悩みであれば、問題が子供の発達特性や周囲からの支援不足であれば、〈ふつうの相談〉の対象である。子供の発達についての理解を促したり、環境調整をしたりする。
逆に本人自身のパーソナリティに起因する不安などであれば、心理療法の適用を考える。

②モチベーション
クライエントが何を望んでいるのかを明確にし、その求めに応じるのが基本である。

③社会経済的環境
お金や時間の問題がまず重要であるが、ほかに文化的な問題もある。
芸能人は軽度の躁状態であることが必要かもしれないし、家族が強く宗教的に結ばれていればセラピーは有害かもしれない。

◯3    〈ふつうの相談〉の技法
①聞く
相手の話を聞き、理解しようとすることが最も重要である。
ただし、〈ふつうの相談〉ではセラピーに比べて、聞いた上での応答の比重が高い。
セラピーは「自分で自分のことを考える」比重が大きいが、<ふつうの相談>では具体的な援助を求める比重が大きいため。

②質問する
これも基本要素である。
ただし、セラピーのときに比べて、〈ふつうの相談〉でなされる質問は穏健であり、マイルドになる傾向がある。
ここで原理となっているのは安全性である。クライエントをできるだけ傷つけないような配慮に貫かれているのが〈ふつうの相談〉の特徴だと言える。 41p
具体的には、「眠れているか?」「食べれているか?」など、心について尋ねるよりも、体の話をすることが多い。

③評価する
標準的なセラピーの教科書では臨床家は価値中立的であるべきとされている。これは価値の主観的な側面を重視している。
これに対して、〈ふつうの相談〉では価値の社会的側面を重視する。 
「一般的にはどう評価されることなのか」をクライエントが知ることには、支持的な効果がある。    42p
自分の立ち位置がわかると助かる、同じ価値を共有できると孤独が和らぐ、といった側面がある。

ただし、評価にはリスクもある。
クライエントは臨床家の価値観に束縛されてしまうかもしれないし、その価値観によって自責感を強めるかもしれない。とりわけ、価値の社会的側面にはしばしばマイノリティに対する暴力が含まれていることにも注意しなければいけない。    43p

④説明する
相手の話を聞き、自分がどう理解したかを相手に説明する。
これは心理教育に近い。
重要なのは知的な説明であり、知識の提供であり、言葉をインストールすることである。    44p
すぐに納得できないことであっても、頭で理解しておくことは大事である。

⑤アドバイスする
アドバイスには2種類ある。
    1.大きなアドバイス:全体的な見通しをもって、大局観を与える。
    2.小さなアドバイス:細かな具体的な助言。
アドバイスは、問題解決につながらないことも多いが、それでも強要さえしなければ、役に立たないアドバイスも役に立ちうる。一緒にトライ&エラーすることができるから。

*④説明する、と⑤アドバイスする、はセットである必要がある。
アドバイスなき説明は現在だけが与えられて未来が欠如しているからクライエントの放置になるし、説明なきアドバイスは納得感が伴わないから無効である。    45p

⑥環境調整
アドバイスのより積極的な形として環境調整がある。
家族のサポートを得るために一緒に面談したり、職場や学校と情報交換したり、ソーシャルワークと連携したり。
要は関係者を増やし、みんなで心配することである。究極的には、これこそがメンタルヘルスケアの本質だと思う。    46p

⑦雑談・社交・世間話
大人にとっての雑談は、子供にとっての遊びである。
その本質的な機能は、「社交」にある。
社交とは得体の知れない他者と平和な関係を築くために試みられるものである。それゆえに互いの本質には踏み込まず、社会的なコードに従って表面的な会話を維持することには価値がある。    48p

雑談で世間について語り合うことで、お互いにとっての世間の共通点や相違点が明らかになる。趣味の話なども同様である。
ブルデュー文化資本概念が教えてくれるように、趣味とは社会的なものである。そこには経済階層や社会的権力の差異が刻印されている。雑談をして、世間話を重ねることは、お互いの間にある社会的差異と同一性を確認する営みに他ならない。    49p

◯4    〈ふつうの相談〉の機能
技法を見てみると、〈ふつうの相談〉は日常的な相談と大差ない。
では〈ふつうの相談〉にはクライエントにとってどのような効果があるのか。

①外的ケアの整備
クライエントが問題を抱えている場合、大抵は個人の要素と環境の要素の両方がある。
その場合、先に介入すべきは環境である。
環境に暴力が吹き荒れ、ケアが欠如しているとき、人は混乱に陥るが、環境が整備され、ケアが厚くなるならば不安は和らぎ、考える力が戻ってくる。この段階に至ってはじめて、個人の心の問題を扱うことができるようになる。    50p
*環境調整の重要性は、個人の心の内側に焦点を当てがちな従来の臨床心理学では見失われやすい。

②問題の知的整理
次に取り組むべきは、個人の要素のうち、変わりやすい部分である。
理性や意識は変わりやすく、情念や無意識は変わりにくい。
そのため、問題の知的整理が役立つ。

「何がわからないかもわからない」のはとても不安であり、問題そのものが解決しなくても、どういう問題があるのかがわかるだけでも価値がある。
医学の世界でも、「診断のつかない症状」は医師患者双方を不安にさせる。仮にでも診断名が与えられることで一定の安心感が得られうる。

③情緒的サポートの獲得
以上の二つの機能が果たされたときに、情緒的サポートが成立する。この順序が重要だ。教科書ではしばしば、ラポールを形成してから、心理的作業に入っていくと書かれているが、まだ何の役にも立っていない専門家をどうやって信頼できるというのか。 52p
と本書では書かれているが、個人的には若干違和感がある。
「なんとなく信頼できそう/できない」という感覚は、相手に会ったときの雰囲気や、もっと言うと相手と会う前から醸成されつつあるのではないか。信頼されればされるほど色んなことを聞き出しやすくなり、それが①②の機能を高め、①②で実際に役に立てば立つほど更に信頼は増す。

そして信頼を得ることができれば、そうした相手の存在そのものが①の外的ケアの資源の一つになる。

④時間の処方と物語の生成
①~③が機能することで、様子を見ることが可能になる。
時間が経つことで、外的な要素は徐々に落ち着き、心も少しずつ安定を取り戻す。

◯機能まとめ
・基本的なベクトルは「外側から内側」である。環境整備→頭の整理→情緒的支え→心の安定。
・それぞれの機能の純度を高めると学派的心理療法論になる。
①→ソーシャルワーク、家族療法など
②→認知行動療法
③→来談者中心療法
④→精神分析
 

第2部    ふつうの相談の構造

フロイトの冶金スキームではなく、「精錬スキーム」を考えたい。
確かに学派的心理療法論は純金かもしれないが、そのときふつうの相談は合金などではなく、野生の鉱物である。原石である。純金とはこの原石を「精錬」することによって取り出されるものなのだ。これを、合金をめぐる冶金スキームに対置する、「精錬スキーム」と呼びたい。 57p
このとき、極限の姿として理論的に想定される、全く精錬していない原石としての「ふつうの相談0」こそがメンタルヘルスケアの始源である。
ふつうの相談0をどの程度精錬するか、その火加減をケースバイケースでちょうど良いところで調整するのが臨床家として重要である。

1    ふつうの相談0
ふつうの相談0は、臨床心理学誕生以前から存在しており、これを理解するためには臨床心理学だけでは十分ではない。そのため別の枠組みからも考える。

◯比較心理療法論と医療人類学
学派的・現場的問わず心理療法論には、吟味されない前提があり、それを「ベタ」に飲み込むことが必要である。(例えば精神分析では「無意識」の存在が前提となっている)
そしてその前提に親和性がある臨床家やクライアントにとっては有益だが、前提を共有できない相手は排除するように働いてしまう。

これに対して「ベタ」な前提は飲み込まず、「メタ」な視点から心理療法について考える潮流もある。
このようなやり方を「メタな比較心理療法論」と呼ぶことにしよう。異なる理論的前提をもつ治療同士を比較し、そこにある同一性と差異を浮かび上がらせるやり方である。    65p
メタな比較心理療法論は人類学、哲学など人文社会科学で広く行われている。
特にクラインマンは包括的な仕事をしたため、彼の理論に沿ってふつうの相談0を吟味してみる。

◯ふつうの相談0の位置
クラインマンはあらゆる社会に、人々が心身の不調に対応し、健康を追求するための仕組み(ヘルスケアシステム)が備わっているとし、それが三つのセクターから構成されていると考えた。
・専門職セクター:社会的に公認された専門家(医者など)
・民俗セクター:オルタナティブな専門家(占い師など)
・民間セクター:素人の民間文化    ★ふつうの相談0はここに位置づけられる

(図4)

図の通り、民間セクターのカバーする範囲は他の2つよりもはるかに大きい。
人々はまず民間セクターを利用し、民間セクターで処理しきれないときに初めて他の2つのセクターを利用する。
そして、専門家によりなされることの多くは、民間セクターで行われるケアの再起動に過ぎない。薬を処方されたとしても飲むのは本人だし、メンタルケアにおいてもまずは環境調整が重要である。

◯説明モデル理論
ふつうの相談0の構造を明らかにする上で、クラインマンの説明モデル理論を参照する。
説明モデルとは「なぜ病気になり、その病気はいかなるメカニズムで成立しており、それはいかなる治療法で対処され、いかなる予後が想定されるのかについての一貫した理解(70p)」のことである。
治療者は特定の理論的枠組み=説明モデルを用いて、ユーザーの抱えている問題を定式化し、説明し、それに基づいて介入する。そのプロセスで治療者とユーザーは説明モデルをコミュニケートし、交渉し、修正しながら共有することになる(共有できないとその治療は中断することだろう)。71p
治療は説明モデルを通じて、人間をある種の生き方へとかたどっていく営みである。
呪術師による霊的治療に癒された人は霊的存在に畏敬を払った生き方をするようになるし、マインドフルネスで癒された人は日々をマインドフルに生きるようになる。

◯ふつうの相談0の説明モデル
では、ふつうの相談0における説明モデルとは何かと言うと、それは素人たちが素朴に懐いている自己や他者の心についての理解である。
中井久夫の仕事を参照し、この素人の説明モデルを明らかにしていく。
中井 74 は人々が病気、あるいは心身の不調を認識するありようとして「普遍症候群」「文化依存症候群」「個人症候群」の三つのアスペクトを挙げた。    74p

・普遍症候群:
西欧近代医学の中で発展してきた診断カテゴリー。統合失調症双極性障害など。
客観的な観察による診断であり、「普遍」的に適用可能とされる。
専門職セクターが管轄し、診断を下す権利や運用について制度的に定められている。
そこには権力が生まれ、現代の公的制度の利用のためには普遍症候群の診断が必要になっている。(休職のための診断書など)

・文化依存症候群:
それぞれの文化に固有のローカルな診断カテゴリー。日本における「狐憑き」など。
その管轄は民俗セクターにある。
これは決してエキゾチックなものではなく、我々の文化にも存在する病のアスペクトである。(例えば、痩せを追求する「摂食障害」が、欧米文化を文脈とした文化依存症候群とされたりする議論があったりする)

・個人症候群:
不調を個人の人生を文脈として物語ろうとするときにあらわれる病名。
(本書内では著者の、出版前後の精神的な変動を呈する「出版精神病」について語られている)

中井久夫の3つの症候群と、クラインマンのヘルスケアシステムの対応はゆるいものだが、有用な補助線にはなる。
ふつうの相談0は、不調を個人症候群として扱っているときに生じる。

◯熟知性
個人症候群の前提となるのが熟知性=「よく知っている」ことである。
「山崎くん、今試練の時期だよな」と心配するためには、彼がどういう人であり、どういう来歴で生きてきて、そしてどのような近況にあるのかをよく知っている必要がある。    77p
相手を知っているからこそ、普遍症候群的には「気分障害」なのが、「人生の危機」という個人症候群に見えてくる。

熟知性のなかでは、よく知っているからこそのアドバイスや配慮がなされる。そしてそれはケースバイケースであり、また日常的な関係性の延長上で「自然に」なされる。
逆に、熟知性が破綻をきたして、「よく知っている」はずの人がよくわからなくなった時に、専門家への相談が選択肢に浮上する。専門知は、わからなくなった人をわかるものにしてくれる。
たとえば、「なんでやる気がないのかわからない」「なぜあんなに怒りっぽいのか」と周囲が扱いあぐねていた人は、「うつ」と診断されることによって再び理解可能な人になる。この意味で、専門知とは本質的に「補助線」である。    78p
 
◯世間知(≒一般常識、良識)
カントは、世間を生きていく上で学ばれる人間と社会についての知を「世間知」と呼んだ。ふつうの相談0において、わたしたちは世間知を参照する。

世間知には2つの構成要素がある。
・フォークサイコロジー:人間とはいかなる存在か
・フォークソシオロジー:社会とはどんな場所か(身の回りの具体的な環境)

つまり、世間知とは人間や社会についての素人知を結合させたものであり、これが普通の相談0の説明モデルとなって、目の前の人の苦悩や不調を「医学的疾患」ではなく生きることの個人的な困難として理解することを可能にする。

◯ふつうの相談0の限界
どんなときにふつうの相談0は破綻するのか、その限界も考えておく必要がある。

まず、世間知の複数性。
世間知は一枚岩ではなく、たとえば団塊の世代とZ世代の世間知は大きく異なるだろう。ジェンダーや社会階層などによっても大きな差異があるはず。
この世間知の差異は、ふつうの相談0を破綻させる。
異なる世間を生きている人への世間知に基づいたアドバイスは、他者のリアリティを否定する非現実的なものになってしまう。    85p

次に、世間知の規範性。
世間知は、その世間において「どう生きるべきか」を教えてくれるが、逆に「どう生きるべきではないか」という抑圧にもなる。特にマイノリティには抑圧として経験されやすい。

最後に、熟知性の限界。
相手のことをよく知らなければ、熟知性は機能不全に陥る。
現代社会においては個人化が進行し、熟知性は低下しやすい。

◯ふつうの相談0、まとめ
ふつうの相談0は、民間セクターで行われるケアである。熟知性を通じて相手を知り、世間知を説明モデルとすることで相手を理解し対応する。このとき相手の苦悩は個人症候群のレベルで取り扱われる。

2    ふつうの相談B
筆者はカードA(学派的心理療法論)のオルタナティブとしてカードB(ふつうの相談)を用いることがある。
カードBは、カードAから零れ落ちた「カードA以外のすべて」である。
カードBを選択するとは、背水の陣を敷くことである。カードBはそのクライエントを引き受けるためにある。つまり、リファーしたり、支援を断ったりするのではなく、自分のところで問題を預かる。本質的な解決ではないかもしれないが、ひとまずの解決を見出すために、手持ちの材料でなんとかしのいでいく。    90p
このようなカードBとしてのふつうの相談である、「ふつうの相談B」の構造を見ていく。

◯カードAと学派知
精神分析など、それぞれの学派にはそれぞれの理論「学派知」がある。
そこには①理解、②価値判断、③介入という3つの契機がある。
特に②は重要で、要は学派知が「健康」だと考える生き方へクライエントを導いていくのが学派知の発想である。
そして、カードAは切れ味が鋭い一方で、その刃によって傷つく人も出てくる。精神分析的主体化は人を幸福にすることもあるし、不幸にすることもある。

◯ふつうの相談Bの構造
ふつうの相談Bにおいて、理解は学派知においてなされる。
精神分析を学んだ者は、どうしても精神分析的側面からクライエントを理解しようとしてしまう。

しかし、価値判断の局面では世間知による補正が入る。
学派知は説明モデルが徹底されている一方で、世間知は穏健でマイルドな日常的な価値を重視する。その2つの間で葛藤が生じることになる。
ふつうの相談Bの原理は「悩ましさ」にある。問題となっているのが、塩梅であり、バランスであるからだ。学派知と世間知の間でふつうの相談Bに取り組んでいる臨床家は揺れ動く。    96p
そのため、ふつうの相談Bにおいては学派知的な介入と、世間知的な介入が入り交じることになる。
僕の場合で言えば非精神科医の立場からメンタルの問題に関わっている。僕のカードAは「PIPC(Psychiatry In Primary Care)」という非精神科医のための精神科疾患の対応方法である。
実は身体疾患に起因するメンタル不調でしたなんてこともあれば、うつ病や不安障害とラベリングして抗うつ薬などを処方することもあれば、休職の診断書を書いたりDVとして警察と連携したりして環境調整に乗り出すこともあるし、傾聴やアドバイスだけで終わることもある。



(図6)

3    ふつうの相談C
今度は、ふつうの相談のもう一つの側面である「現場知」としてのふつうの相談Cを考える。(CはClinicalの頭文字)

◯現場知とは
現場知とは同じ現場で仕事をしている人たちが共有している説明モデルである。
デイケアにはデイケアの、保健室には保健室の、〇〇会社には〇〇会社の現場知がある。
ふつうの相談Cは現場の文化に内在していて、当たり前の日常に浸透している。
ふつうの相談Bでは学派知と世間知が価値判断の局面で葛藤していた。臨床家はケース・バイ・ケースでその判断に悩む必要があった。しかし、ふつうの相談Cでは葛藤は目立たない。それは自然に流れてゆくものである。    102p

◯現場知の2つの側面:硬い現場知と柔らかい現場知
硬い現場知とは、その現場を取り巻く法律や制度などの、公的なものについての知である。(たとえば会社なら、休職や復職の制度など)
硬い現場知は公文書に記載があるが、使いこなすには経験が必要で、血肉化する必要がある。

柔らかい現場知はより心理的・経験的・人間的なものである。
たとえば自分の働く児童養護施設で、どういうトラブルが起きやすく、どんなときには修復されやすく、どんなときには後遺症を残すか、など。

硬い現場知は日本中の施設とある程度共通しているが、柔らかい現場知は個々の施設に固有なものが多い。
この2つの知はどのような価値を有しているのか。

◯硬い現場知の説明モデル:制度的役割
それぞれの臨床現場は社会的制度にしたがって、予算が計上される。そのお金の流れが、それぞれの現場の制度的役割を表現する。
たとえば企業の相談室は、社員が健康に働き続けることを目的としているため、そこのカウンセラーは「働くこと」を規範とすることになる。
臨床現場は制度が求めることを果たさねばならない。人間を社会が望むように象ることが求められる。現場知には社会的規範が埋め込まれているのである。    106p

すると、そこには権力が生まれる。権力には暴力的側面と保護的側面が含まれる。
・暴力的側面:かつての精神病院が「治療」の名のもとに患者を閉じ込めた、など
・保護的側面:児童相談所が非虐待児を一時保護する、など
ここにある権力の危険性と保護性を、身をもって知っているのが現場の臨床家であり、そこにあるのが血の通った硬い現場知である。    109p

◯柔らかい現場知の説明モデル:社会的ニーズ
それぞれの臨床現場を利用するユーザーの人口的傾向から、柔らかい現場知が生まれる。
平たく言えば、「うちの利用者にはどういう人が多いのか」という現場知である。
たとえば僕の前職は高齢化率30%を超える雪国の田舎だった。特に冬は家にこもっていることが多いから血糖値が上がりやすい。でも逆に雪かきをする人は運動量が増えて血糖値が下がったりする。何年かいると、実感としてそういう傾向が見えてくる。

◯ふつうの相談Cの構造
現場知はトップダウンの制度的役割(硬い現場知)とボトムアップの社会的ニーズ(柔らかい現場知)のせめぎ合いによって形成される。
そのせめぎあいによって、それぞれの現場の臨床文化が形成される。その現場がどんな問題を引き受け、どんな人間を規範とするのか、そのためにどう介入するか。そうしたことが現場の人たちに共有される。
ふつうの相談Cとは本質的に集団的で組織的なものである。    112p

◯世間知と現場知の関係
現場知は、専門家としての世間知である。
専門家が、現場に入って徐々に慣れていくことで、そこの現場の空気を学んでいく。
つまり、それぞれの現場についての世間知こそが現場知なのである。ふつうの相談Cとはふつうの相談0をそれぞれの現場に合わせてローカライズしたものだということだ。    114p

(図7)

このとき、臨床現場の常識が、しばしば一般社会での非常識になることは気をつけなければいけない。

結論    ふつうの相談の位置

1    ふつうの相談A――メンタルヘルスケアの地球儀
実際の臨床では、ふつうの相談Bの顔と、ふつうの相談Cの顔の両方がある。
図6と7を垂直に組み合わせることで、球体ができる。
これをふつうの相談Aと呼ぶ。(AnataのA)

(図8)

2    臨床知

(図9)

専門知とは、学派知と現場知をあわせたものである。
知は複雑な現実を単純化して理解しやすくする装置であり、そこには常に単純化による暴力が潜んでいる。
だからこそ、心の臨床家にはこれら三つの知をメタに見る視点が求められる。地球を宇宙から見る人工衛星が必要なのだ。学派知が人をどのように形作ろうとするのか、現場知がいかなる「健康」を目指すのか、世間知はどのように生きるのを「善し」としているのか、そしてそれらがどのようなときにユーザーを傷つけ、損なってしまうのか。    123p
臨床知とは、3つの知をメタに見る視点そのものである。