家庭医療専門医の勉強記録

医学・非医学問わず、学んだことを投稿しています。内容の間違いなどありましたらご指摘ください。また、内容の二次利用については自己責任でお願いします。

【居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書】

 
 

こんな人にオススメ

・子育て中の方、教育関係の方、医療・介護・福祉関係の方、など「ケアに関わる人」。
ケアは実はすべての人に関わるので(気づきにくいのも特徴)、そういう意味では皆さんに広くオススメでもあります。

國分功一郎さんの本が好きな人。「暇と退屈の倫理学」「中動態の世界」について新しい知見が得られます。

本書の内容

本書は、ケアとセラピーについて書かれた”スペクタクル学術書”です。
心理士の資格を持つ筆者自身の精神科デイケア*での勤務経験や取材を元に作られた、架空のデイケアが話の舞台となっています。
学術書と銘打ってはいるが、ストーリー仕立てかつ軽妙な語り口で書かれているのですごく読みやすい
精神障害のある方が、社会参加、社会復帰、復学、就労などを目的に様々なグループ活動を行う通所施設

本書では、二つの問いに答えることが目指されています。

二つの問いとは、タイトルから連想できるように、
「ケアとセラピーとは何か?」
「居るのはなぜ辛いのか?」
になります。

それらに対する答えを簡潔に書くと、こんな感じです。
「ケアとセラピーとは何か?」
ケアは傷つけないことで、セラピーとは傷つきに向き合うことである。
「居るのはなぜ辛いのか?」
居場所としてのアジールは、容易にアサイラムになってしまうから。
アジール=隠れ家、アサイラム=監獄)

これだけじゃ、あまりピンとこないと思うので、本書のエッセンスを各章毎に短くまとめてみました。(9つの章と2つの幕間口上で構成されています。第1章はプロローグ的な内容なので省略しました)

「いる」は僕らが生きて何かを「する」上での土台である。(第2章)

・「いる」はふとしたことで脅かされる。そんな時心と体の境界は不明瞭となり、「こらだ」が現れ、他者の「こらだ」を必要とする。(第3章)

・「いる」を支えるのはケアだが、ケアは社会的評価が低い傾向にある。そしてケアする人自身も脆弱な状態になりやすいため、ケアする人のケアも必要である。(第4章)

・ケアは平衡状態を目指し、セラピーは何らかの変化を目指す。(幕間口上)

・自我境界が曖昧になると「いる」が脅かされ、退屈できなくなる。「いる」が守られてこそ、退屈できるようになる。(第5章)

・日常の「ケ」が「ケガレ」にならないように、時々非日常の「ハレ」が必要だが、「ハレ」が事件になることもある。事件は日常を破壊し、そこには新たな何かが生まれる。(第6章)

・ケアする人とケアされる人は投影により相互関係にある。ケアする人がケアされ、ケアされる人がケアする。それらをコミュニティと捉えれば、コミュニティには中動態としてのケアが生じているともいえる。(第7章)

・別れは辛いから、人は別れの辛さを紛らわそうとする。一方で別れは残された人に良い痕跡を残すこともある。(第8章)

・ケアは傷つけないことで、セラピーとは傷つきに向き合うことである。ただしケアとセラピーは二項対立ではなく、グラデーションである。僕らにはどちらも必要である。(幕間口上、ふたたび)

・ケアのためのアジール(隠れ家)は容易にアサイラム(監獄)になってしまう。そこには「ただいるだけでいいのか?」という会計の声や「金になるから仕方ない」というニヒリズムが絡んでいる。だからこそ「いる」ことの価値を伝え続けなければいけない。(最終章)



多分、これでも「??」だと思うので、ご興味のある方は、本書を直接手に取って頂くか、以下に各章の内容を私なりに解釈したものを載せてあるのでご笑覧ください。

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第2章    「いる」と「する」    とりあえず座っといてくれ

沖縄のデイケアで勤務することになった臨床心理士の僕(話の主人公)は、上司から「とりあえず座っといてくれ」と言われた。何も「する」ことがなくてその場に「いる」ことができなくなった僕は、デイケア利用者に話しかけたりしたが上手くいかない。カウンセリングを試みたりもしたが、かえって利用者の精神状態を悪化させてしまったりもした。しかし4か月ほど経つと、その場に慣れて、何もせずに「とりあえず座っている」ことができるようになった。

仕事を「する」、学校で勉強「する」。
これらの「する」はその場に「いる」ことが前提になっている。
そして「いる」ことは当たり前すぎて忘れがち。
無理なくその場に「いる」ことができるとき、ウィニコットによると「本当の自己」が現れる。そうした時、僕らは誰かに頼り、依存することができる。

逆に「いる」が脅かされたとき、僕らは何かを「する」ことで、「偽りの自己」をつくり出し、なんとかそこに「いる」ことを可能にしようとする
デイケア利用者たちは日常の場では「いる」ことができないので、デイケアの場で「いる」ことができることが目指される。

第3章    心と体    「こらだ」に触る

デイケアでは日常的に精神的に不安定になった人の対応が必要になる。利用者のユリさんはここ数週間調子が悪く、興奮して他の利用者と喧嘩になることが多くなった。彼女に限らず、他の利用者も水中毒で入院したりしていた。実はその根底には、デイケアにいた医師が退職したために大きなルール変更が必要になったりして、スタッフ側が不安になっていたことが原因になっていたかもしれない。

中井久夫という精神科医は、心と体を分けておくのは、それが便利だからという利用にすぎないと述べている。指のイボは体の問題であり、心の問題ではない。恋の病は心の問題であり、体の問題ではない。分けておいた方がわかりやすい。

しかし実際には心と体はそんなにきれいに分けられるものではなく、特に余裕がなくなったりすると、その境界はさらに不明瞭になり「こらだ*」が現れる。
中井久夫の造語。心と体の総体のような意味。例:不安な時に心臓がバクバクするように、心だけでも体だけでもなく「こらだ」が不安になる。
僕らの日常は実は薄皮一枚で維持されていて、上司に怒られたり、恋に落ちたり、ふとしたことで崩れてしまう。そうした「いる」が脅かされる事態では、「こらだ」が現れやすい

「こらだ」は自分でコントロールが難しく、他者を巻き込む。他者にまで伝染して「こらだ」にしてしまう。そして、「こらだ」はほかの「こらだ」と一緒にいることで落ち着きを取り戻す

第4章    専門家と素人    博士の異常な送迎

僕は臨床心理士の資格を持っているのに、デイケアでは車の運転をしたり、利用者とスポーツをしたり、専門家でなくてもできる素人仕事ばかりしていた。一方デイケアには医療事務ガールズがいて、彼女たちは専門的な資格はなくてもそれらの仕事をそつなくこなしていた。でも彼女たちはあまり長居せずに転職・退職してしまうことが多かった。

専門家の仕事は一定水準以上のことが求められる。下手な仕事はかえって害になることもある。一方で素人仕事は(大抵)誰でもそこそこできる。そして、掃除・洗濯などのように誰かがやらないと日常に支障をきたす。

そうした素人仕事のことを、キテイという哲学者は「依存労働」と呼ぶ。
依存労働は、脆弱な状態にある他者を世話(ケア)する仕事である。    103p
育児を思い浮かべると、授乳したりあやしたりオムツを換えたり、その仕事は多岐にわたる。

僕らの祖先が原始人だった頃、皆で狩りをし食事を作っていた。病人がいれば皆でケアをした。そうした原始的ケアは、徐々に専門の仕事に分化していく。体を専門に診る医者、食事を扱う栄養士、心を扱う臨床心理士
依存労働とは、専門化しないままに残ったケアの仕事なのだ。だからそこにニーズがあれば、ありとあらゆることをやる必要がある。
そして、依存労働は社会的評価が低い傾向がある。僕らは自立した個人を前提とした社会を生きている。本当は互いに依存しあっているのだが、そのことが見えにくくなっている。人は本当に依存しているとき、自分が依存していることに気づかない。そのため依存を満たす仕事の価値が低く見積もられてしまう。

ケアは親密な関係が必要であり、その距離の近さ故に、ケアする側も傷つくことがある。脆弱な人のケアをするとき、ケアする側自身も脆弱な状態に置かれる
だから、キテイは依存労働者には「ドゥーリア(ケアする人をケアするもの)」が必要だと述べている。
ドゥーリアは、きちんと休息時間を取れることだったり、息抜きができたりすることだけでなく、知識も含まれる。子育ての知識を得ることで子育ての悩みが減るように、心理学的な知見を知ることで相手のことがわかってケアしやすくなるように。
だから、逆説的に依存労働(素人仕事)にはある種の専門性があった方が身を守れる

幕間口上    時間についての覚書

セラピーとケアでは、時間の感覚が異なる。

セラピーは、何らかの変化を目指す
それは物語的(平衡状態→非常事態→あらたな平衡状態)である。
映画ドラえもんで、のびたの日常→事件→あらたな日常と展開するように。
そこには線的な時間が流れる。

ケアは、平衡状態を目指す
同じような毎日を繰り返すことを目指し、円環的な時間が流れる。
3週間前の火曜日、何があったか覚えてない方が大半だろう。同じような出来事が続くから。

線的時間も円環的時間も、どちらも僕らの人生の一部である。
「線は人生に関わり、円は生活に関わる」    127p
 

第5章    円と線    暇と退屈未満のデイケア

大学1年生のハエバルくん(統合失調症疑い)がデイケアに通い始めた。①彼は「頭の中に穴が開いている感じがするからそれを塞ぐ石を作っている」と言い、いろんな気晴らしに誘っても参加しなかった。②しかしデイケアに通ううちにデイケアに馴染み、いろんな気晴らしにも参加できるようになった。③その後、彼はデイケアに退屈するようになり、原付免許を取得し、デイケアにあまり来なくなった。これはハエバルくんの回復の物語である。

本章では暇と退屈の倫理学が多く引用される。

エバルくんの変化を、順を追ってみていく。

ブログ内容から引用すると、僕らは退屈する時に「引きとめ」と「空虚放置」を経験する。
私たちはぐずつく時間に引きとめられている。
その状態はとてもむなしく、空虚のままに放置されている。
〈空虚放置〉状態では、周りに物があっても、物が私たちに何も提供してくれない。
(上記ブログより)
退屈は辛いので、僕らは何らかの気晴らしでそれをしのごうとする。

しかし、ハエバルくんは当初気晴らしを必要としなかった(①)。彼は退屈していなかった。物が彼に語り掛け、「空虚放置」されてなかった。これは「幻聴」「被害妄想」といった形で現れる。
ただしこれは精神障害者に限らず、健常人でも会社を遅刻した時に周りの視線が痛かったりと空間に充満する「何か」を感じてしまうことがある。
僕らは自分と他人の境界を認識しており、自我境界がきちんと機能していれば、円のように僕らを包み込んでくれる。僕らの日常を可能にし、退屈を感じられるようにしてくれる。しかし、ハエバルくんの頭の中には穴が開いており、それが自我の境界を曖昧にしてしまっていて、結果としてそのような症状が出ていた。

そんなハエバルくんは、徐々に気晴らしに参加できるようになった(②)。何か劇的なきっかけがあったわけではなく、デイケアの円環的時間が、彼の円を修復したのかもしれない。しかし家庭や学校にも円環的時間はあったのに、なぜデイケアだけが有効だったのか。そこには遊びが関連している。

一人で砂遊びしている少年を想像しよう。彼は時々手を止めて、ベンチに座っている母親を確認する。母親は彼に気づき、手を振ってくれる。すると少年は安心して再び遊びに没頭し始める。このように、遊ぶためには誰かに依存して身を預けることが必要である

ただここには逆説があり、他者に依存できるからこそ遊べるし、遊ぶからこそ他者に依存できる。僕らは遊びに巻き込まれることで、気づけば遊べるようになっている。デイケアにはそうした治療的仕掛けがふんだんにあり、それが家庭や学校の円環的時間とは異なっていたのだろう。

その後、ハエバルくんは徐々にデイケアに退屈するようになった(③)。
遊びはいつか醒める。そこには第二形式の退屈*があり、新しい気晴らしとして彼は原付免許を手に入れたのだ。*上記ブログ参照

第6章    シロクマとクジラ    恋に弱い男

利用者のリュウジさんは同じく利用者のユリさんと付き合い始めて幸せそうだったが、同時に徐々に不隠になっていった。野球中にクロスプレーで興奮したリュウジさんは暴力を振るいそうになったが、看護師のダイさんが上手く制止してくれた。話し合いの末、様子を見ていたら、数か月後に二人はいつの間にか別れていた。リュウジさんはしばらくは普段のような元気がなかったが、徐々に元気になっていった。そしてデイケアは再び元に戻った。しかしそこには退職したダイさんはいなかった。

デイケアの日常(ケ)は危うい均衡により成り立っていて、そのままだと徐々に枯れていって「ケガレ」になってしまう。ケガレはデイケアの平和を脅かす。だから、時々祝祭(ハレ)の時間を設けることで、枯れた「ケガレ」を生き返らせる
ハレは非日常であり、普段は禁じられていることが許される。例えばスポーツでは、相手に勝つために普段は禁じられている攻撃性が解放される。ただしハレにはリスクがあり、解放されたものがコントロールを越えて事件が起きてしまうこともある

事件とは、哲学者のジジェクによると「すべての安定した図式を覆すような新しい何かが突然に出現すること」である。事件により日常・自己は破壊され、そして新たな日常・自己が出現する。新たに生まれるものは良いものかもしれないし悪いものかもしれない。そして、恋愛も事件の一つである。

事件により、自己には悩みが生じる。フロイトはこれをシロクマとクジラを例に説明する。
僕らの心の中にはシロクマ(意識)とクジラ(無意識)が住んでいて、それらは氷の上と下の別々の世界に住んでいるから、普段は出会わない。
そして、フロイトシロクマとクジラの取っ組み合いが僕らの心を豊かにする、と考えた。ただクジラが強すぎて氷を割ってしまうこともあるから、その時はクジラをなだめなければいけない。

第7章    治療者と患者    金曜日は内輪ネタで笑う

統合失調症のユウジロウさんは、ふしぎな人でしょっちゅう月の住人(幻聴)とトークしている。それがヒートアップすると利用者のジュンコさんがケアしてくれる。僕が疲れている時も、ジュンコさんはケアしてくれる。ありがた迷惑な時も多いけど。
ある日ユウジロウさんが急に変な歌を歌って、デイケアは大爆笑に包まれた。ケアする人とケアされる人ではなく、デイケアにケアが生じていた。そんな一日の翌週、ユウジロウさんは急に亡くなった。でもユウジロウさんのことを思い出すとケアが生じる。

社会心理学者のリースマンは「援助者療法原理」を提唱している。
これは、「誰かをケアすることで、自分がケアされる」ということであり、逆に「誰かにケアされることが、その誰かのケアになる」ということである。
そして、ケアされることに慣れると、その場に「いる」ことができるようになる。


(212pより引用)
治療者は、患者のトラウマに触れるなかで、治療者自身の過去に抱えていた傷つきが疼く。逆に、患者は治療を受ける中で、患者自身の癒す力を活性化させる。
これは「投影」と呼ばれる心の動きを反映している。投影とは、自分の心の中にあるものを、外界の誰かへと投げ込むことをいう。
患者は自分の癒す部分を治療者に投影し、それに癒されることで自分を癒す。
あるいは治療者は、自分の傷ついた部分を患者に投影して、癒すことで癒される。
そしてそれは反転もする。
患者もまた、自分の傷つきを投影することで、治療者に傷ついた部分を見出し、それを癒すことを通して、自分の傷を癒す。
あるいは、治療者もまた自分の癒す部分を投影したことで癒すようになった患者に癒されることで、自分の傷を癒す。    214p

ケアする人とケアされる人は、このように複雑に絡み合っているが、もしかしたら主体はコミュニティなのかもしれない。ケアする人もされる人もコミュニティのメンバーであり、コミュニティは一つの主体と考えることができる。
メンバーになるとは、背中を掻く右手になることであり、右手に掻かれる背中になることなのだ。    222p
つまり、コミュニティにケアが生じて、それがコミュニティに作用する。内輪ネタが生じて、内輪ネタで笑う。これは中動態的でもある。

第8章    人と構造    二人の辞め方

タカエス部長が退職した。タカエス部長は直前まで利用者の誰にも辞めることを言わず、退職当日に発表することで、別れの衝撃を最小限にしようとした。そして実際、何事もなかったかのようにデイケアは続いた。
その後シンイチさんも退職した。シンイチさんは自分の退職前にできることをしようと思い、利用者のトモカさんと面談を重ねた。トモカさんなら社会復帰できると期待したのだ。しかしトモカさんは別れの辛さに耐えきれず、退職日当日にはデイケアに来られなかった。シンイチさんは敗北のうちに退職した。しかし、トモカさんはその後、4年ぶりに仕事を始めた。

別れは辛い。区切りがついてほっとすることもあるし、せいせいすることもあるが、同時にやはり寂しい。だから、人は別れの辛さを紛らわそうとする
学校の卒業式は過剰なセレモニー化で衝撃を和らげる。お葬式ではお坊さんの意味不明な呪文が心を守ってくれる。あるいは、躁状態になることで喪失の辛さを和らげようとする(「躁的防衛」)。
それでも辛すぎる場合には、「蓋をする」。今は考えないようにする、あるいは特定の話題をあえて取り上げないようにする。

一方、別れは残された人に痕跡を残す。失った対象を思い起こしては悲しみに襲われ、それを繰り返す中で、喪失した人が自分の心の中で存在していることが感じられる。良い記憶が生き残り、感謝の念が生まれる

幕間口上、ふたたび    ケアとセラピーについての覚書

ケアは傷つけないことである。ニーズを満たし、依存を引き受けることである。十分にケアされることで「いる」ことが守られる。そうすると人は平衡を取り戻し、日常が支えられる。
セラピーとは傷つきに向き合うことである。ニーズを変更することを目指す*。自立を目指す。そうすると人は非日常のなかで葛藤し、そして成長する。
*例:「ずっと一緒にしてほしい」→どれだけニーズを満たそうとしても、いない時間に”相手に迷惑がられてるんじゃないか”と不安になる→ニーズを「一緒にいなくても不安にならないようにする」に変更することを目指す

ただしケアとセラピーは二項対立ではなく、グラデーションである。僕らにはどちらも必要である。

(277p)

最終章    アジールアサイラム    居るのはつらいよ

僕は4年間務めたデイケアを辞めることにした。
いるを支えるための隠れ家(アジール)であるデイケアは、一歩間違えると人を監視する監獄(アサイラム)になってしまう。
「ただ、いる、だけ」を支えるデイケアで、僕は「それでいいのか?」という内なるニヒリズムの声に食い破られてしまった。
それでも僕らは居場所を必要とする。アジールはまた生まれてくる。

アジールとは、寺院など、罪人を庇護するための場所のことだった。僕らは多かれ少なかれ罪人であり、だから「いる」を支えるアジールが必要なのだ。

しかし「いる」を支えるケア施設には二重性がある。「いる」はケアとして支えられるものでもあるが、経済的収益源でもあるからだ。そして後者が強調されるときに、アジールは、アサイラム(監獄)になってしまう。アサイラムにおいては、ケアする人がケアされないため、ケアする人が辞めていってしまう。
逃げ込んだ罪人を庇護するアジールに、効率性とエビデンスが求められるとき、そこは罪人を画一的に管理するアサイラムに変わるのだ。    325p

なぜ「いる」が脅かされるのか。
そこには会計の声がある。限りある予算の中で「ただ、いる、だけ」にお金がつぎ込まれる。「それでいいのか?」「もっと効率的にならないか?」と問われてしまう。実際、ケア施設への予算配分は厳しく、セラピー的要素がより求められるようになってきている。
シンプルにいえば、セラピーにはお金がつきやすく、ケアにはお金がつきにくい。

「それでいいのか?」と問われ、答えに窮したとき、ニヒリズムが現れる。
「ただ、いる、だけ」の価値がよく見えない。

だけど「ただ、いる、だけ」によって金銭が得られる。

だから、金銭を得るためには「ただ、いる、だけ」が必要である。    325p
このニヒリズムこそが、アジールアサイラムに変質させてしまう真犯人なのだ

それでも僕らは居場所を必要とする。だからアジールはまた新しく生まれてくる。たとえそれがすぐにアサイラムになってしまうとしても、それは必ず生まれてくる。
だからこそ、僕らはアジールを少しでも生き延びさせなければいけない。「ただ、いる、だけ」の価値を伝え続けなければいけない


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ブログあとがき

学生時代、インドのコルカタで2週間ホームステイしました。
マザーテレサが設立したマザーハウスが近くにあり、マザーハウスでボランティアをしつつ、空き時間で周りの観光もしつつ、というプログラムでした。
こう書くと如何にも立派な学生という感じですが、「良いことをしつつ観光も楽しむ」という、偽善的な自尊心を満たすものでもありました。実際自由時間も多かったので、観光も満喫しました。

マザーハウスには障害を持つ小さな子供たちがたくさんいました。
確かマザーハウスは何個か建物があって、そのうちの一つが小児用の施設だったのだと思います。
彼らが親に捨てられたのか一時的に預かっているのかはわかりませんでした。彼らは寝たきりで、僕らのケアに反応する子もいれば、殆ど無反応の子もいました。

「彼らは今後どう生きていくんだろう?このまま一生ケアを受け続けるんだろうか?(それでいいんだろうか?)」素朴にそう感じました。

「ただ、いる、だけ」の価値が当時の僕にはよくわかりませんでした。でも思い返すと僕はケアすることで彼らから(ちっぽけながら)自尊心を満たしてもらってたし、スタッフの人たちも彼らのケアにより何かを得ていたんだと思います。

そしていま、こうして思い返すことで、また僕は彼らにケアされている。
彼らが「いる」こと(「いた」こと)の価値を、僕の中に感じます。

マザーハウスが、アサイラムでなくアジールであり続けてくれていたらいいなと思います。