こんな人にオススメ

・吃音の当事者や、その周りの人
・「体って意外と思った通りに動かせないな」と思う人

・(デカルト信奉者で心身二元論が真実だと思う人)
・(アンチデカルトで心身一元論こそが真実だと思う人)

要約と感想

本書には2つの目的がある。
・吃音という現象を通して、「しゃべる」の多様性に光を当てる
・「自分のものでありながら自分のものでないからだ」をたずさえて生きるという、問いに向き合う

吃音という現象は、心身二元論的。(デカルトなど、心と体を別々の実体としてとらえる哲学的立場)
・「連発」は心と体の「乖離」    例:たたたたたまご
・「難発」は体の「拒絶」    例:っっっったまご
・「言い換え」は体への「裏切り」例:たまご→鶏卵
・「ノる」は体の「パターン制御」    例:リズムや演技
・「乗っ取られる」は「パターン制御に依存」した状態


前回ブログで心と体の境界が不明瞭になる「こらだ」のことを書いたが、本書で書かれているのはある意味で真逆のことである。
「こらだ」は要は非常時に(だと心が認識して)交感神経が優位になっている状態で、緊張や興奮とともに動悸や発汗などが起きる。これは原始社会においては大型動物から逃げたり狩りをしたりする上で重要な反応だが、現代社会では例えば重要なプレゼンのときなど相対的に交感神経が興奮しすぎてかえって困る場面が多いのかもしれない。

僕自身には吃音はないが、心身二元論的現象は僕自身にも起きる。
典型的なのはスポーツや楽器演奏だろうか。理想とする体の動きを思い描いても、その通りには動かせない。

心身一元論的な「こらだ」においても、心身二元論的現象においても、「体が心の思うとおりにならない」という意味では共通しているように思う。
そして心も思うようにはコントロールできない

体は最も身近な他者であり、身近な分、最も影響力を行使できるが、決して思うとおりにはならない。実際体は色んな微生物がいることで成り立っているし、ミトコンドリアも元々は別の微生物だという説もある
他人という他者は、もちろん思うとおりにはならないが、限定的とはいえ影響力を行使できる。というより否応なく、大なり小なり影響を与えてしまう

そう考えると、影響力という意味では自分の体も他人もグラデーションであり、その境界は意外と曖昧なのかもしれない。仏教でいう「無我」を、そうした捉え方をしてもいいのかもしれない。

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以下、各章毎の要約(第7章以外)

 

第1章    あなたはなぜしゃべれるのか

「しゃべる」という運動は「オートマ制御」である。
しゃべるためには舌や喉頭のコントロールが必要となるが、それらはほぼ無意識に「パターン」に沿って行われる。

また発声は一語一語独立したものではなく、言葉をスムーズに連結できるように声道をある形から別の形へと変形させていく「モーフィング」の作業である。
例えば「米」と言うとき、「こ」と発音した後、「こ」から「め」へと声道がスムーズに変形され、「め」へと繋がる。

第2章    連発――タガが外れた体

連発とは「最初の音を繰り返す」症状のこと。
例:「たまご」→「たたたたたたたたたたまご」
次の音にモーフィングするための準備運動、ともいえる。

連発は「エラー」であり、わざと行うことはできない。

連発は「する運動」ではなく「なってしまう運動」であり、「私の運動」でありながら「私のものでない運動」です。    70p


ふつう「しゃべる」は言語的活動であり、身体運動として意識されることは少ない。
しかし身体のオートマ制御がうまくいかない連発は、否応なく身体運動としての「しゃべる」を意識させる。これは心と体の乖離である。

「言葉じゃなく肉体が伝わってしまう」    71p


連発は「タガが外れた状態」であり、体が勝手に動いている状態なので、実は身体的には楽である。ただし社会的には往々にして困るため、いろんな対処法が生まれる

また、連発は当事者も非当事者も、どうしようもないという点においては同じであり、ある種の他人事感覚がある。

第3章    難発――緊張する体

難発とは、「音が出ないこと」。
例:「たまご」→「っっっっっっっっっっったまご」

難発は、連発の対処法として生まれる症状である。
前述のとおり連発は身体的には楽だが、社会的にはふさわしくないとみなされるため対処が必要となるというわけである。
*ただし、必ずしも周囲の関わりが悪いから生まれるというわけではない。吃音当事者が、自分の喋り方を自覚することで、おのずと身に着ける対処である。

つまり吃音においては、連発にせよ、難発にせよ、ひとつの現象が「症状」であり、かつ「対処法」でもある、という二面性を持つのです。    101p

*二面性は身体現象においてはよくみられる。たとえば発熱は、仕事に行けないなど困った「症状」でもあるが、ウイルス等に対抗するための「対処法」でもある。

連発は「乖離」だが、難発は「拒絶」である。
心が喋ろうと思うことが、体に拒絶される。
連発は体が楽だが、難発は思うように体を動かせないつらさがある。

難発は必ずしも心理的な緊張がトリガーになるわけではなく、トリガーは人や場面により異なる。ただし独り言ではほぼ出現しない。

第4章    言い換え――体を裏切る工夫

(吃音当事者における)言い換えとは、難発になりそうな言葉を別の言葉に言い換えることである。例:飛行機→航空機、利き手→ふだん使っている手。
これは半ば自動的に行われる。

言い換えは当事者によっては対処法としての側面しか感じない人もいるが、人によっては症状としての側面を感じる人もいる。(症状としての側面は別の章で後述)

ただし、例えば音読の場面では言い換えができないので、音読にはある種の窮屈さ・拘束性がある。実際、古代ギリシャでは音読は奴隷の仕事とされていた。

難発が「拒絶」だったのに対し、言い換えは「裏切り」である。
体が難発の予感を感じていた、その予想を裏切り、準備を無効にする。

第5章    ノる――なぜ歌うときはどもらないのか

歌ったり、演技する時には多くの当事者が吃音が出ない。
これらに共通するのは「ノる」。

歌にはリズムがあり、リズムとは「変化を含んだ反復を刻む」ことである。
この「刻む」作業に巻き込まれると、体が自然と「やってしまう」。

「反復」は過去と同じようなことが繰り返されることであり、複雑さ・不確実性が減少する。そうすると「しゃべる」運動も安定し、吃音というエラーが出にくくなる。

「刻む」運動には、過去の運動の「勢い」が含まれ、未来の運動へと向かう「勢い」が含まれる。そのような推進力があるため、運動はある程度自動化される。

つまりリズムにおいては、運動を部分的にアウトソーシングできる、と言うことができるでしょう。    165p


これはリズムと「ともに運動すること」とも言える。

通常、障害の分野では、運動が一人でできないときには、介助者という他者が介入して、その運動を助けることになります。でも吃音の場合はちょっと違う。リズムなどの運動を推進させる構造そのものが、介助者になるのです。「ともに運動する」という意味では通常の介助と同じですが、吃音においては、それが運動の構造として純化されていると言えます。    166p

演技においても、何らかの役柄という構造(パターン)が介助者になり、吃音が出にくくなる。

このように、「ノる」とは体の運動の主導権を一部明け渡すことである。
これは単純な能動でも受動でもなく、哲学者のレヴィナスが言うところの「匿名態」の状態である。

匿名態とは、この「無意識ではないけど自分でコントロールしているわけでもない状態」を指します。    181p

名前が似ている國分功一郎さんの「中動態」とごっちゃになりそうだが、全然違う

言い換えは「裏切り」だったが、ノるは「パターン制御」である。

第6章    乗っ取られる――工夫の逆襲

ノるは「パターン制御」だったが、パターンに運動を「乗っ取られる」へ反転してしまうことがある。
そもそもリズムや演技にノり続けることはできないから、実生活では使えない。
またパターンを優先していると生き生きとした喋りが失われてしまう
 
次に、「パターン制御」が「しゃべる」の社会的行為の側面に与える負の影響を見ていく。

一般に社会生活における演技は「自分の利益になる印象を与える」のが目的だが、吃音当事者の演技は「自分の運動を助けること」が目的である。
それにも関わらず、周りは通常の社会生活における演技として受け取る、というズレが生じることがある。
そして吃音当事者の演技の場合には、社会的な印象が、運動上の工夫の副産物として生じることになるので、自分では制御できないところで、自分の印象が形作られてしまう
例:山田さんは「適当キャラ」を演じると吃音が出にくいため、よく使っていた。
ところが山田さんのグループに優秀な先輩が入ってきた。
「適当キャラ」を続けるわけにいかず、先輩の前だけどもるようになり、「喋りにくい奴」だと思われてしまった。結局、先輩にチューンナップするのに半年の時間を要した。

これは、吃音当事者が話し言葉の選択の依存先が限られていることにより生じる。
パターンに依存せざるを得ず、パターンに「乗っ取られ」てしまう。

「乗っ取り」に対処するには、依存先を増やす必要がある。
吃音当事者の中には、連発・言い換え・ノるといった対処法を状況に応じて使い分けることで「乗っ取り」が起きないようにしている人もいる。