家庭医療専門医の勉強記録

医学・非医学問わず、学んだことを投稿しています。内容の間違いなどありましたらご指摘ください。また、内容の二次利用については自己責任でお願いします。

【観光客の哲学】大切な人を失った後どう生きるか

 
 
こないだ、北海道マラソンに出場した。
僕にとってそこまでの遠出はかなり久々で、マラソン後には少しだけ観光する時間もあった。(結局ほとんどしなかったが)

でも、僕は正直言って観光がそこまで好きじゃない。観光地をただ見るだけだとさほど楽しめない気がする。

でもせっかく行くのに楽しめないのは勿体ない気もする。
なので、旅に関する本を読もうと思った。
「旅+哲学」のキーワードで探していたら、昔買った本書が引っ掛かったので再読することに。

で、ほんとうは北海道に行くまでにブログを書き上げたかったのだが、間に合わなかったので、このタイミングで投稿。


・全体を短めにした要約
・各章ごとの短めの要約
・感想
・メモ(各章ごと詳しめの要約)
の順に書いてあります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

*現実にいる「観光客」そのものではなく、「観光客」をモチーフにして新しい「他者論」を考察している。

全体の要約

観光はふまじめ。政治はまじめ。
政治の外部にあるのが観光。
でも、世界平和には観光が必要だ。たとえ歓迎されなくてもお互いの国を訪問する権利は尊重されるべきだ。

国家(政治、ナショナリズム)と市民社会(経済、グローバリズム)が二層構造に分離した現代、二層をつなぐのは観光客だ。
観光客は、郵便的マルチチュードである。二層構造を連帯しようとして失敗するが、連帯してたような気もする。その錯覚がまた連帯の試みを後押しする。

人間社会にはスモールワールド性とスケールフリー性がある。スケールフリー性はつなぎかえ(誤配・偶然)により生まれるから、誤配をまた試みる郵便的マルチチュードはスケールフリーに対応しうる。

観光客のアイデンティティは家族的連帯である。家族は子ども(偶然)を必然として「憐れみ」を持って引き受け拡張することができる。偶然に囲まれた主体(不能の父)であることで、失われた偶然の傷を新しい偶然で癒やすことができる。

各章ごとの要約

第1章    なぜ観光客の哲学なのか
・観光客論の本質は、新しくないテーマ「他者論」を新しいスタイルで語ることにある。
・観光は近代以降の存在で、それ以前の旅とは大衆性の点で異なる。
・観光客の哲学を考える狙いは3つある。①グローバリズムについての思考の枠組みの構築、②社会を不必要性・偶然性から考える、③ふまじめ・まじめの境界を超えた知的言説の構築。

付論    二次創作との共通点
二次創作と観光は、無責任さ・テーマパーク化において共通点がある。

第2章    観光客の哲学の基礎となる哲学
ヴォルテール:世界にはつねにぼくたちの想像を超えた悲惨な現実があるかもしれず、観光は想像力の拡張と不可分である。
・カント:世界平和には共和制になった国々が連合をつくり、かつ互いの国を訪れる「訪問権」があることが必要である。
ヘーゲル:人間の成熟のためには家族や社会だけでなく、国家が必要である。

・シュミット:政治的判断には友と敵、共同体の内外という二項対立がある。
・コジューブ:人類はポスト歴史において、与えられた環境に自足するだけの、精神的に人間と言えない「動物」になった。
アーレント:人間には公共の場で行う政治的な行為である「活動」が必要。顕名で公共的である存在だけが「人間」の名に値する。
→20世紀の人文学は、大衆社会の実現と動物的消費者の出現を「人間ではないもの」の到来と位置づけ、それを批判した。

第3章    ネーションの二層構造
・人間に身体と精神があるように、国民国家(ネーション)には国家(精神・政治的側面)と市民社会(身体・経済的側面)がある。
【国家】=政治、精神、上半身、思考、ナショナリズム、人間、コミュニタリアニズム
市民社会】=経済、身体、下半身、欲望、グローバリズム、動物、リバタリアニズム、帝国
・現在の国際関係は、市民社会だけが繋がり、国家が繋がらない「愛のない肉体関係」状態である。
ネグリとハートは、帝国(グローバル化を作り上げる政治的秩序)の内部から生まれる帝国の秩序への抵抗運動をマルチチュードと呼んだ。(元々は群衆という意味)

第4章    郵便的マルチチュード
・観光客は、郵便的マルチチュードである。二層構造を連帯しようとして失敗するが、連帯してたような気もする。その錯覚がまた連帯の試みを後押しする。
*郵便:存在しないものが、失敗(=誤配)の効果で存在しているように見え、存在するかのような効果を及ぼすこと
*誤配:宛先にきちんと届かないこと。それによる予期しないコミュニケーションも含む

・人間社会にはスモールワールド性とスケールフリー性がある。スケールフリー性はつなぎかえ(誤配・偶然)により生まれるから、誤配をまた試みる郵便的マルチチュードはスケールフリーに対応しうる。
・具体的指針のヒントとして、目の前にいる苦しむ人に”思わず”手を差し伸べるような「憐れみ」こそが「連帯」の基礎になるだろう。

第5章    家族
・観光客のアイデンティティは家族的連帯である。
・家族には強制性・偶然性・拡張性がある。
・眼の前にいる捨て犬を家族として迎え入れるように、人格性を持たない新生児を家族とみなすように、「憐れみ」は最初から種の壁を超えており、だからこそ人間は家族をつくることができる。

第6章    不気味なもの
・情報技術に囲まれた人類は、不気味なもの(現実と異界の境界が曖昧になること)に囲まれている。
・観光客は、まるでコンピュータの画面を見るかのように、イメージとシンボルの往復運動をしながら「想像的同一化」と「象徴的同一化」を果たす。

第7章    
・チェルヌイシェフスキー:リベラリズム:偽善
・地下室人:ナショナリズム:偽善を暴く快楽
・スタヴローギン:グローバリズムニヒリズム
・アリョーシャ:不能の父:観光客。不能の父は子どもたちに囲まれている。子どもは偶然の存在であるから偶然に失われることもあるが、新しい偶然もまた生まれる。そして新しい偶然が必然の存在になっていく。

感想

僕は、家族のために生きている。
家族がいるから生きていられる、という方が正確かもしれない。

もし家族を失ったらどうなるだろう?と空想することがある。
我ながらなんとも自虐的で悲劇的で不謹慎な空想だが、そういうときになんとなく考えるのが「児童養護施設で働く」という選択肢だ。

児童養護施設のことをちゃんと知っているわけでもないし、児童養護施設にいる子達を失った家族の代わりのように扱うとしたらそれはそれで不適切なのかもしれないけど、でもそうした人たちのケアに携わることができれば、そのことで生きていけるかもしれない。

自分勝手な考え方だなと思っていたけど、「不能の父」であると考えるならそうした別の愛する対象(偶然)なしには人間は悲しみを乗り越えることができないのかもしれない、と思った。

実際に家族を失った方を思い返すと、確かにそうなのかもとも思う。


Kさんは夫亡き後も、息子や近所の方が愛する対象として残っていた。
Hさん家の娘さんは母亡き後も、娘や孫がいた。

愛する人と生きることができた、その思い出だけでその後を生き抜くことができる、という考え方もあるが、思い出だけで生き抜くにはさすがに人生はしんどいのかもしれない。

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以下、長々とメモ

第1部 観光客の哲学
第1章 観光

1.
東は別の書籍で、以下のような主張をしている。
人間が豊かに生きていくためには、特定の共同体にのみ属する「村人」でもなく、どの共同体にも属さない「旅人」でもなく、基本的には特定の共同体に属しつつ、ときおり別の共同体も訪れる「観光客」的なありかたが大切だという主張である。    kindle位置72

ただし、似たような主張はありふれており、例えば柄谷行人も、「共同体」には外部からやってくる「他者」が必要なのだと主張している。

とはいえ、古代ギリシア以来、新しいものなどないのが哲学である。
だから、観光客論の本質は、新しくないテーマを新しいスタイルで語ったところなのかもしれない。


左翼的・文化的・政治的・ロマンティックな「他者」という言葉から、
商業的・即物的・世俗的な「観光」という言葉へ。
しかしそれでも、「他者が大事だ」と主張するのと「観光客が大事だ」と主張するのとでは、ニュアンスは大きく異なる。そして本書は、まさにそのニュアンスの差異がいま重要だと考え、その差異の意味を理論的に基礎づけるべく書かれた本である。    kindle位置95

本書が執筆された2016-2017年にかけて、ブレクジット、アメリカファーストを掲げるトランプ大統領の誕生などの出来事があった。「他者とつきあうのに疲れた」時代に、「他者を大事にしろ」と言っても響かない。なので他者の代わりに「観光客」という言葉を用いる。
観光客から始まる新しい(他者の)哲学を構想する。これが本書の目的である。 kindle位置120

2,
観光とはなにか。
観光という言葉は、英語のtourismの訳語である。
tourという言葉が旅行の意味を持つようになったのは17世紀半ば頃。
つまり、観光は近代以降の存在である。
旅はむかしから存在した。巡礼も冒険もむかしから存在した。けれども観光は近代以降の社会にしか存在しない。 kindle位置201

観光と、それ以前の旅の違いとは、大衆性である。
昔の旅は、一部の富裕層のものだった。
産業革命で労働者階級が力を持ち、彼らの生活に余暇が生まれることで、観光が生まれた。
余談:19世紀頃、パリやローマに行くイギリス人観光客が、よくメディアの物笑いの種になっていた。現代、日本に来る中国人観光客を笑う構図と一緒である。

そのような観光がますます世界を覆うことで、世界はどう変わるのか。
そのような問いに答えた学問は少ないし、答えていたとしても否定的な見解ばかりである。東はその壁を壊したい。

3.
その前に、観光客の哲学を考えることの3つの狙いを述べる。

グローバリズムについての新たな思考の枠組みを作りたい
世界は急速に均質に「フラット」になりつつある。
観光客の急増はこの変化と切り離せない。
 観光客の哲学的な意味を問うとは、この「フラット化」の哲学的な意味を問うということに等しい。    kindle位置372

②人間や社会について、必要性(必然性)からではなく不必要性(偶然性)から考える枠組みを提示したい
観光は不必要なものである。
観光が生まれた頃、遊歩者も出現した。遊歩者とは、パサージュ(ショッピングモールの起源となった建築)をぶらぶらと無為に歩く人々である。

そして、観光客は、観光地をまさに遊歩者のように入っていく人々である。
観光客は、世界のすべてをパサージュ(ショッピングモール)のようにまなざす
ウィンドウショッピングをする消費者のように、たまたま出会ったものに惹かれ、たまたま出会ったひとと交流をもつ。だからときに、訪問先の住人が見せたくないものを発見することにもなる。    kindle位置406

③まじめとふまじめの境界を超えたところに、新たな知的言説を立ち上げたい
学者は「まじめ」なことを考えるが、観光は「ふまじめ」な問題である。
しかし例えばテロは「まじめ」に語るべき問題だが、観光と非常に近い部分がある。

テロリストは観光客に偽装するし、ときに観光地を襲う。とても「まじめ」な重大な問題である。しかしテロリストの動機をたどると、たとえばイスラム国(ISIL)がハリウッド映画のような過度に編集された処刑動画を作り、それに感化されてテロをしていたりと、とても「まじめ」とはいえない「ふまじめ」な動機が見つかったりする。

政治は「まじめ」と「ふまじめ」を峻別する行為だが、テロリストは政治だけではうまく捉えることができない。観光客の哲学を用いて、それを打破したい。

付論 二次創作

二次創作とは?
マンガやアニメから、一部のキャラクターや設定だけを取り出し、「原作」から離れて自分の楽しみのためだけに別の物語を作り上げる創作活動のことである。    kindle位置578

二次創作は、観光と似ている。
両者に共通するのは無責任さである。観光客は住民に責任を負わない。同じように二次創作者も原作に責任を負わない。
(中略)
さらに踏みこめば、観光も二次創作もともに、最初は嫌われるにもかかわらず、時間が経つにつれ受け入れられ、いつのまにか住民や原作者の経済がそれなしには成立しなくなってしまう、そういう皮肉な過程があるところも共通している。 kindle位置599

さらに、二次創作と観光は、テーマパーク化している点においても共通点がある。
現代の消費環境においては、最初に原作があって、つぎに二次創作が来るのではない。原作者は最初から二次創作について考え抜いている。だとすれば、同じように、最初に「素朴」な住民がいて、つぎに観光客が来るという順序もじつは転倒しているのではないか。否、むしろ、いまはあらゆる場所が、観光客の視線をあらかじめ内面化し、町並みやコミュニティをつくるように変わってしまっているのではないか。言い換えれば、すべてがテーマパーク化しているのではないか。 kindle位置662


第2章 政治とその外部

本章では観光客の哲学の基礎固めのため、幾つかの哲学者が紹介される。

1.
ルソーによると、「人間は人間が好きではない。人間は社会をつくりたくない。にもかかわらず人間は現実には社会をつくる。」

2.
ヴォルテールは「カンディード」においてライプニッツの最善説を批判した。
最善説とは、簡単にいえば、「最善である神が作ったこの世界は最善のはずだ。現実に苦しむ人がいたとしても、それは神の計り知れない配慮において必ず最善につながり救済につながっている」という考え方。
ちなみに、最善説は進化論にも影響している。進化論は、いま現存する生物相(=現実)こそが、長い淘汰の結果として生まれた最善の生物相であるはずだ、という信念に支えられている。

ヴォルテールはこれを批判し、世界は「まちがい」に満ちていると訴えた。
ヴォルテールは「カンディード」において、主人公に世界旅行をさせたが、ヴォルテール自身はヨーロッパの外に出たことがなく、すべては想像の産物である。
彼は、最善説を否定するにあたり、悲惨な個々の現実を突きつけるのではなく(というのも、そのような事例の列挙はたやすく最善説に回収されるので)、むしろ、世界旅行という思考実験を導入することで、世界にはつねにぼくたちの想像を超えた悲惨な現実があるかもしれないという、その可能性一般を突きつけようと試みたのである。 kindle位置985
観光が、知識の拡張というよりも、むしろ想像力の拡張と不可分であるという点において、このヴォルテールの指摘は重要である。

3.
カントは「永遠平和のために」において、永遠平和には3つの条件が必要だと記している。
①各国が共和制であること
*共和制:専制君主が存在せず、大統領など国民が選んだ人物が統治する体制。⇔君主制
**民主制とは異なる:国民一人一人が政治に参加すること。⇔独裁制

②共和制になった各国が合意の上で上位の国家連合をつくること
世界市民互いの国を訪れる「訪問権」があること(歓迎されるかは別)

つまり、カントは①②だけでなく③が平和のためには必要だと考えた。
カントの時代にはまだ観光はなかったが、東は観光の権利と読み替え可能だと考える。

①②だけだと、共和国でない国は国際秩序から排除してよい/するべきだとなりかねない。
実際イラク北朝鮮(ロシアや中国も?)などはアメリカ中心にそのようにみなされている。

そこで③である。
観光客は、ただ自分の利己心と旅行業者の商業精神に導かれて、他国を訪問するだけである。にもかかわらず、その訪問=観光の事実は平和の条件になる。それがカントが言いたかったことではないか。    kindle位置1118
例えば、中国や韓国と日本は重大な政治的問題を常に抱えているが、それとは関係なく互いに観光客の行き来があり、それが関係悪化の抑止力になっているかもしれない。

4.
ヴォルテールもカントも、ともに単線的な歴史への抵抗という点で共通している。
そして、カントの③にあったような観光客の亜政治的な可能性について、東はシュミットの「政治的なものの概念」を参照する。

シュミットによれば、抽象的な判断には、必ずその判断の基礎となる固有の二項対立がある。
美学的な判断は美と醜の二項対立、倫理的な判断は善と悪の二項対立、経済的な判断は益か損かの二項対立がある。それらの対立は独立していて、例えば「美」だが「悪」だとか、「善」だが「損」だということはよくあることである。

そして、政治的な判断には、「友」と「敵」の二項対立がある、とシュミットは考えた。
この場合の友と敵とは、共同体の内か外かということである。
戦争のような極限状況において、友を守るために敵を殲滅する判断を下す。それがシュミットの考える政治の本質である。そしてその判断には、美醜、善悪、損益といった別の二項対立は関わってはならない。    kindle位置1192

5.
カントとシュミットの間の時代に活躍した哲学者に、ヘーゲルがいる。

ヘーゲルによれば、人間はまず家族のなかで私的な存在として生きる。
つぎに社会に出ると、言語や貨幣などを介して公的な存在として生きなければならなくなり、公私に引き裂かれる。
そして最後に国家に所属し国民になることで、公的=国家的な意志を私的な意志として内面化し、成熟した精神に到達する。
人間がきちんとした人間になるためには、家族の一員であること(即自)や、市民社会で他者に触れること(対自)とは別に、なんらかの上位の共同体に属すること(即自かつ対自)が絶対的に必要だと、ヘーゲルはそう考えたのだ。 kindle位置1273

シュミットの友敵理論は、政治とはまさにこの国家を存続させるためにあるのだと述べている。そしてこの理論は現在のグローバリズムを批判する文脈でも転用可能である。端的に言えば、グローバリズムは友敵の区別を抹消し、政治そのものを抹消してしまうということである。
国家が存在しなくなったら、政治は存在しなくなる。政治が存在しなくなったら、人間は人間でなくなってしまう。シュミットは、人間が人間であるために、グローバリズムを拒否するのだ。 kindle位置1314

本書の観光客の哲学にとって、友敵理論は重大な障害である。これを乗り越えなければいけない。
近代思想は、人間は友敵の対立をくぐらないと成熟しないと述べた。だとすれば、ぼくたちは、観光客の哲学を設立するために、その対立をくぐらない別の成熟のメカニズムを探る必要がある。 kindle位置1346

6.
その課題に取り組む前に、友敵理論と観光客の哲学の対立関係を多角的に捉えるために、2人の思想家を参照する。

アレクサンドル・コジューブは「ヘーゲル読解入門」で、人類が与えられた環境に自足してしまった、精神的には人間とは言えない状態になった後の歴史、ポスト歴史について考えた。    
ポスト歴史においては、もはや人間は存在せず、そこにいるのは「動物」である。
戦後のアメリカに生きているのは、誇りを失い、他人の承認も必要とせず、与えられた環境に自足して快楽を求め商品を買っているだけの動物的な消費者の群れでしかない。 kindle位置1405    
 
そしてこの指摘は、シュミットの考えと類似している。
シュミットもコジェーヴもともに、人間と人間の生死を賭けた闘争がなくなり、国家と国家の理念を賭けた戦争が解消され、世界がひとつになり消費活動しか存在しなくなった時代における人間の消失を問題にしている。シュミットはそれを政治の喪失(自由主義化)と呼び、コジェーヴは歴史の終焉(動物化)と呼んだkindle位置1425

国家を離れ、民族を離れ、他者の承認も歓迎も求めず、個人の関心だけに導かれてふわふわと行動する観光客は、まさに「動物」である。

7.
もう一人は、ハンナ・アーレントである。
アーレントもまた、「人間の条件」にて人間には人間として生きるための条件があり、それは「活動」である、と考えた。

アーレントは、人間が行う社会的な行為を、活動・仕事・労働の3つに分類した。
(仕事は人工的な世界を作り出す行為、例えば何らかのものづくりが相当する)

活動は、公共の場で演説したり他人と議論する、といった政治的な行為。
労働は、人間の生物学的規定に対応する行為、つまり身体の力だけが問われる行為。コンビニのバイトなど。

この2つは行為者の「固有名性」の点で大きく異なる。
活動は、誰が行うのかがとても重要で、「顔」や「名前」が問われる。
一方で労働は、誰が行うかは問われず、顔のない「生命力」が売買されている。

また、「他者」「公共性」の有無も重要である。
活動は、聴衆のない演説があり得ないように、他者が必須である。それは公共の意識にもつながる。
他方で労働は、他者がいない。コンビニ店員が客と接してたとしても、それは「生命力」の宛先になっているだけで、他者として現れているわけではない。労働は本質的に私的な経験である。

顕名で公共的である存在だけが「人間」の名に値する。匿名で私的な存在はその名に値しない。 kindle位置1501
そして、アーレントは後者を「労働する動物」と呼ぶ。

このように、シュミットもコジューブもアーレントも、経済合理性だけで生きる社会を批判した。
二〇世紀の人文学は、大衆社会の実現と動物的消費者の出現を「人間ではないもの」の到来として位置づけた。 kindle位置1550
 

第3章 二層構造

1.
前掲したヘーゲルとカントをもう一度参照する。
ヘーゲルは、国家を市民社会の自己意識だと捉えた。市民社会はただ目の前のニーズに駆動されて生きるだけだが、国家によってアイデンティティが加わる。
カントは、国家をひとつの人格として捉えた。カントは共和制になった各国が合意の上で上位の国家連合をつくることを平和の条件の一つとして挙げたが、これは要は共和制ではない国は子どもで、共和制となり大人になるとようやく社会に入れるのだと述べている。

この2つを組み合わせると、人間に身体と精神があるように、国民国家(ネーション)には国家(精神・政治的側面)と市民社会(身体・経済的側面)があるというイメージが導かれる。これはとてもナショナリズム的である。
ナショナリズム(英: nationalism)とは、国家という統一、独立した共同体を一般的には自己の所属する民族のもと形成する政治思想や運動を指す用語。 wikipediaより

現代は、トランプなどナショナリズムもあり、一方でグローバリズムでもあるという分裂の時代である。この分裂はどのように説明すれば良いのか。

国家=政治、精神、上半身、思考、ナショナリズム、人間
市民社会=経済、身体、下半身、欲望、グローバリズム、動物

このように整理すると、ネーションのうち、国家は境界を持ちナショナリズム的だが、市民社会は境界なく繋がりグローバリズム的だと言うことができる。
現代では、ナショナリズムグローバリズムというふたつの秩序原理は、むしろ、政治と経済のふたつの領域にそれぞれ割り当てられ重なり共存している。ぼくはそれを二層構造の時代と名づけたいと思う。 kindle位置1832

そして現代の国際関係は、「愛のない肉体関係」とも表現できる。
下半身はつながっているのに、上半身はつながりを拒む時代。それが二層構造の時代の世界秩序だが、最後に、さらに下品との非難を浴びるのを承知のうえで連想を進めるとすれば、この時代においては、国民国家(ネーション)間の関係は、しばしば、愛を確認しないまま、肉体関係だけをさきに結んでしまったようなものになりがちだと言うことができるのかもしれない。 kindle位置1853 
政治的信頼関係のないまま経済的依存関係を深めてしまったのは、軽率で不純かもしれない。とはいえ関係が切れないのであれば、愛を育てるしかない。

2.
リベラリズムは「現在のアメリカでは、人格的な自由こそ尊重するが、富の再配分を重視して経済的な自由はむしろ制限する、(中略)福祉国家支持の立場(kindle位置1889)」を意味している。そして、リベラリズムの批判として、リバタリアニズムコミュニタリアニズムが生まれた。

リバタリアニズムは、「諸個人の自由を最大限重視し政府による強制を最小限にとどめるべきだという、社会倫理や政治思想上の見解(kindle位置1881)」である。
リバタリアニズムの考える国家は、個人がともに生きるための最低限の調整装置である。
リバタリアンの「国家」は、政治=人間の層というよりも、むしろ徹底して脱政治的な、経済=動物の層に属するメカニズムとして考えられているのである。 kindle位置1994

コミュニタリアニズムは、「普遍的な正義より共同体の善を重視する社会倫理上の立場(kindle位置1924)」である。リベラリズムは普遍的な正義を信じるが、コミュニタリアニズムはそれを信じない。
リバタリアニズムグローバリズムの思想的な表現で、コミュニタリアニズムは現代のナショナリズムの思想的な表現である。そしてリベラリズムは、かつてのナショナリズムの思想的な表現である。 kindle位置1956

3.
アントニオ・ネグリマイケル・ハートの提唱した「マルチチュード」を参照しつつ、観光客の哲学を提示する。

ネグリとハートは、グローバル化が進む冷戦後の世界を「帝国」と呼んだ。
帝国とは、グローバルな経済的あるいは文化的な交換をスムーズに機能させるため、国民国家とは別に、国家と企業と市民がともにつくりあげる新たな政治的秩序を意味している。本書の言葉で言えば、「国民国家の体制」はナショナリズムの層に、「帝国の体制」はグローバリズムの層に相当すると考えてよいだろう。 kindle位置1983

国民国家の体制と帝国の体制では主要な権力の質が異なる。
前者では規律訓練、後者では生権力である。
前者は権力者が懲罰を与えることで対象者を動かす。
後者は規則や環境などを変えることで、対象者の自由意志を尊重しつつも、権力者の目的どおりに対象者を動かす。

4.
マルチチュードとは、もともとは多数性を意味する言葉である。群衆・衆愚などとも呼ばれる。
ネグリとハートはそれを、帝国の内部から生まれる帝国の秩序そのものへの抵抗運動(対抗帝国)を広く指す言葉として捉え直した。

要はマルチチュードとは反体制運動のことだが、これはグローバルに広がった資本主義を拒否せずに、むしろ利用する。アラブの春などのようにインターネットを活用する。

そしてマルチチュードは、二層構造を横断する運動、政治の層と経済の層のあいだをつなぐ可能性として構想されている。マルチチュードは政治と経済を分離しない。
マルチチュードは自分の生(オイコス)から運動を始める。労働や生活の現場から運動を始める。そして帝国の批判にいたる。 kindle位置2125

ただし、ネグリとハートのマルチチュードの理論には、このマルチチュードがどのように政治を動かすのか?という戦略論が欠けている。
それには大きく理由が2つある。
マルチチュードは、第一に、帝国の内部で、帝国自身の原理から生みだされる反作用だと考えられていた。そして第二に、多様な生を多様なまま共通点なくして連結する、「否定神学的」な連帯の原理に依存するものだと考えられていた。 kindle位置2377
要は、マルチチュードが生まれる理由や、生まれた後の拡大の論理が不明確だった。

第4章 郵便的マルチチュード

1.
東は自身の著作「存在論的、郵便的」で、「郵便」「誤配」という概念を提示する。
それに対して「郵便」は、存在しえないものは端的に存在しないが、現実世界のさまざまな失敗の効果で存在しているように見えるし、 またそのかぎりで存在するかのような効果を及ぼすという、現実的な観察を指す言葉である。 kindle位置2392
そしてその失敗を、「誤配」と呼ぶ。(宛先にきちんと届かないことで生じる、予期しないコミュニケーションの可能性も含む)
例えば、郵便論的には、神は存在しないが、存在しているように見えるし、現実に存在するかのような効果を及ぼす、と考える。

そして、この「郵便」を用いて「郵便的マルチチュード」の概念を考える。
観光客こそが、その郵便的マルチチュードである。kindle位置2401)」と東は定義する。
観光客は、群衆・衆愚などと呼ばれる「マルチチュード」である。
また、観光には、予期しないコミュニケーションが多く含まれ、その意味で「郵便的」である。
ひとがだれかと連帯しようとする。それはうまくいかない。あちこちでうまくいかない。けれどもあとから振り返ると、なにか連帯らしきものがあったかのような気もしてくる。そしてその錯覚がつぎの連帯の(失敗の)試みを後押しする。それが、ぼくが考える観光客=郵便的マルチチュードの連帯のすがたである。 kindle位置2438

2.
誤配の発生機序や力学を説明する数学的モデルを提示する。

ネットワーク理論によると、人間社会(人間社会が含まれる「複雑ネットワーク」一般)は、「大きなクラスター係数」「小さな平均距離」「スケールフリー」という三つの特徴を備えているとされる。

クラスター係数
あるネットワークにおいて、理論的に成立可能なクラスターのうち、実際にどれほどのクラスターが成立しているかを表す指標。
クラスター=群れ、仲間。3つの頂点が枝でつながり三角形になった状態。

(図2)

家族や地域、職場など、人間関係の三角形がいくえにも重なった中間集団(共同体)がいくつも存在し、社会はそれらがさらに重なることで成立しているのである。二一世紀の科学は、その状況を「クラスター係数が大きい」と表現する。 kindle位置2511

・平均距離
頂点と頂点を結ぶ最小の枝の数。図2で言うと、点AとEの距離は3。
人間社会は、あらゆる人から人が、わずか6つの友人関係を経由することで辿り着けることが確認されていて、平均距離が非常に小さい。

(図3)
図3a:一次元格子グラフ。全ての頂点が同じ数の枝を隣の隣の点まで伸ばしている。
図3b:図3aの枝を特定の確率で別の頂点に「つなぎかえ」たもの。
図3c:ランダムグラフ。頂点の連結が無作為に決定されている。


人間社会はすべての人間が直接繋がっているわけではないが、図3bのような「近道」が時々存在することで、小さな平均距離が実現している。
ネットワーク理論では、大きなクラスター係数と小さな平均距離をあわせ「スモールワールド性」と呼ぶ。
(前略)みな基本的には仲間のなかに閉じこもっているのだけど、ときおり(確率的に)閉じた関係のなかに見知らぬ他人が侵入することがあり(つなぎかえ)、その新たな出会い(近道)こそが世界を一気に狭くする、そのような人間関係である。 kindle位置2591

・スケールフリー
図3aではすべての頂点で次数(頂点に接続する枝数)が同じだったが、図3bはつなぎかえの結果として次数に偏りが生じている。
次数に大きな偏りのある不平等なネットワークが、スケールフリーのネットワークである。

スケールフリー性は、ネットワークに新しい頂点が加わる(成長)ときに、新しい頂点が接続先として高い次数の頂点を優先しやすい(優先的選択)により生じる。
人間社会は、年収やフォロワー数など様々な面でスケールフリー性がみられるが、これは決して搾取の結果ではなく、偶然の選択の結果である。
理論は世界の富の偏りは予測できるが、だれが富むのか、だれが貧しくなるのかは予測できない。富の偏りは、一部の富めるものがつくるのではなく、ネットワークの参加者ひとりひとりの選択が 自然に、しかも偶然に基づいて つくりだしていくのだ。 kindle位置2730

4.
以上の数学理論を、(リスクはあるが)哲学に転用する。

人間社会には、スモールワールド性とスケールフリー性がある。
しかし、だとすれば、それは、ぼくたち人間が、 同じ社会をまえにしてそこにスモールワールド性を感じるときとスケールフリー性を感じるときがあることを意味しているのだ と、そのように解釈することができないだろうか。 kindle位置2805
 
ぼくが本書で提案する観光客、あるいは郵便的マルチチュードは、スモールワールドをスモールワールドたらしめた「つなぎかえ」あるいは誤配の操作を、スケールフリーの秩序に回収される 手前 で保持し続ける、抵抗の記憶の実践者になる。 kindle位置2860

5.
人間社会の物語を、下記のように強引に神話風に語ることができる。
原始的な格子グラフは、枝の確率的なつなぎかえによってスモールワールドグラフへと変わる。共同体は市民社会へと変わる。けれども、社会を社会たらしめた誤配あるいは確率は、すぐに優先的選択(資本)へと変質し世界に圧倒的な不平等をもたらすのだ。 kindle位置2960

このグローバリズムの不平等への抵抗として、その外部にあるナショナリズムに根拠を求めるか、グローバリズムの内部から生まれるマルチチュードに夢を託すか。それ以外の第3の道を提示したい。

スケールフリーはつなぎかえ(≒誤配)により生まれる。
それなら、誤配を演じ直すことにより、スケールフリーが偶然であることを思い起こさせることが、抵抗運動の基礎にあるべきではないか。
出会うはずのないひとに出会い、行くはずのないところに行き、考えるはずのないことを考え、帝国の体制にふたたび偶然を導き入れ、集中した枝をもういちどつなぎかえ、優先的選択を誤配へと差し戻すことを企てる。 kindle位置2946

具体的な行動の指針は指し示せないが、そのヒントとしてローティの「偶然性・アイロニー・連帯」を参照する。
現代では、たとえば宗教を私的に信じるのは自由だが、公的なものとして他人に矯正はできない。本来宗教は普遍的なもののはずなのだからこれは矛盾しているのだが、その矛盾を現代人は受け入れなければいけない。

ではそのような普遍的な価値なしに、人々はどう連帯するのか?それは憐れみだとローティは言おうとしたのではと、東は分析する。
たまたま目のまえに苦しんでいる人間がいる。ぼくたちはどうしようもなくそのひとに声をかける。同情する。それこそが連帯の基礎であり、「われわれ」の基礎であり、社会の基礎なのだとローティは言おうとしている。 kindle位置3032

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第2部 家族の哲学(序論)

第5章 家族

1.
グローバリズムのなかに生きるビジネスマンは個人を拠り所に生きる。
ナショナリズムのなかに生きる市民は国民国家を拠り所に生きる。
ではその二層を横断する観光客は何を拠り所に生きるのか?
観光客のアイデンティティは家族なのでは、と東は考える。

ただしこれは家族そのものと言うより家族的な連帯である。

2.
家族の概念を脱構築するうえで、論点を3つ提示する。

①強制性
家族は自由意志ではそう簡単に出入りできるものではない。
趣味のサークルは出入り自由だから、そのために命をかける人はそうそういない。アイデンティティにはならない。
でも家族は、命をかけるに値しうる。アイデンティティとなりうる。

②偶然性
同じ親から生まれるにしても、違う精子卵子が結合していたら、別の子が生まれる。
「この子」が生まれるのは偶然である。
この点において、すべての家族は本質的に偶然の家族である。言い換えれば、家族とは、子の偶然性に支えられたじつに危うい集団なのである。 kindle位置3318

③拡張性
日本の「イエ」は、(現在の核家族のイメージとは異なり)血縁よりも経済的な共同体を重視し、養子縁組によってかなり柔軟に拡張が可能な組織だったと言われている。
また、家族とみなすかどうかは、ときに私的な情愛により決められている。
それにより、家族の拡張性が生まれ、同時に境界が曖昧なものになっている。
例えば、現代ではペットを家族と呼ぶ人が増えている。

功利主義者のピーター・シンガーは「実践の倫理」で、類人猿に部分的な人権を与えるべきだと主張した。
彼は、平等の原理に基づき、条件を満たした動物には人権を付与すべきだと考えた。それにより彼は動物の生命に序列を持ち込み、翻って人間の生命にも序列を持ち込むことになった。
結果としてシンガーは、オランウータンやチンパンジーの成体のほうが、自己意識を持たない人間の胎児や嬰児よりもはるかに「人格性」が高く、法的に守られるべきだという結論に達し、多くの非難を浴びることになった。 kindle位置3406

シンガーの序列の原理からは、恐らくハムスターやカメレオンに人格性が認められることはないが、現実にはそれらを家族とみなしている人々は大勢いる。
つまり、家族の拡張性は、功利主義的な合理的な思考を超える。
新生児に人格はない。でもぼくたちはそれを愛する。 だから子どもにも人格が生まれる。最初に人間=人格への愛があり、それがときに例外的に種の壁を越えるわけではない。最初から憐れみ=誤配が種の壁を越えてしまっているからこそ、ぼくたちは家族をつくることができるのである。 kindle位置3431
*憐れみ=誤配:合理的な思考からは生まれないということから、(本来の宛先と異なるところに届く)誤配とイコールで結んだのだと思われる。

第6章 不気味なもの

1.
「情報技術の革新性とはそもそもそこで哲学が意味を失うことにあるのではないか、だとすればこの仕事はそもそも無意味なのではないか(kindle位置3544)」という疑いが、本章の出発点となる。

東は20年ほど前の「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」(サイバースペース論)という論文において、「情報技術の本質は不気味なものの経験にある、しかし当時情報社会論で流行していた「サイバースペース」の比喩はそれを取り逃がしてしまう(kindle位置3565)」と主張した。

サイバースペースとは、コンピュータのネットワークを空間として捉える比喩である。
現実にそのような空間はないが、フロンティアを失ったSF作品に重宝された。
また、この言葉には資本主義(アメリカ)の新しいフロンティアとしての政治的な含意も帯びた。

2.
情報技術が現実を変容させた本質は、サイバースペースではなく、「不気味なもの」という概念で説明できる、と東は主張した。

「不気味なもの」はフロイトが書いた論文のタイトルで、フロイトによれば、「不気味さの本質は、親しく熟知しているはずのものが突然に疎遠な恐怖の対象に変わる(たとえば身近な親族が幽霊になるなど)、その逆転のメカニズムにある。(kindle位置3721)」

東は現実と異界の境界が曖昧になることを「不気味なもの」と表現している

3.
情報技術社会の主体は、不気味なものに囲まれた主体である。
それはどういうことなのか、精神分析の知見を活かした図式化を紹介する。

ラカンによれば、人間の主体は「想像的同一化」と「象徴的同一化」の二重化により構成される。
想像的同一化:目で見る像への同一化。映画で言うと、観客がスクリーンを眺め、俳優に憧れるようなもの。
象徴的同一化:世界の背後にある大文字の他者への同一化。映画で言うと、映画監督の視点を追いかけるようなもの。
ひとは、両親なり教師なりをまねるだけでは(想像的同一化だけでは)大人になれない。彼らがなぜそのようなふるまいをするのか、そのメカニズムを理解すること(象徴的同一化をすること)ではじめて大人になる。 kindle位置3888

サイバースペースなき情報社会の主体について考えることは、大文字の他者が弱体化した主体について考えることである。
映画で言えば映画監督が存在しない状態。コンピュータのインターフェイス画面を想像してみると、像の奥に映画監督のような存在はいない。

(図1)

ニコニコ動画の放送をイメージすると、出演者(イメージ)と視聴者のコメント(シンボル)が同時に映し出される。
視聴者はときに出演者に同一化してしまうかもしれないが(想像的同一化)、しかし同じ画面にはたえずコメントが流れ、そちらを読むとこんどは大文字の他者ならぬ視聴者の無意識に同一化することになり(象徴的同一化)、出演者への素朴な感情移入は壊れてしまうことになる。 kindle位置3966

観光客は、まるでコンピュータの画面を見るかのように、イメージとシンボルの往復運動をしながら「想像的同一化」と「象徴的同一化」を果たす。

そして、コンピュータのインターフェイスの奥に隠された弱体化した大文字の他者とはソースコード(暗号)であり、これはまさに不気味なものである。
(前略)観光客の視線とは、世界を写真あるいは映画のようにではなく、コンピュータのインターフェイスのように捉える視線なのではないだろうか?    そこにはイメージもあればシンボルもあり、そして解読しなければならない暗号もある。 kindle位置3996
 

第7章 ドストエフスキーの最後の主体

前述したとおり、テロと観光は密接な関係にある。
そしてドストエフスキーは、テロを扱った作品が多い。
彼の作品の変遷を追っていく。

チェルヌイシェフスキーの「何をなすべきか」では、社会主義的なユートピアの世界が描かれた。

ドストエフスキーの「地下室の手記」は、それを批判する形で書かれた。
主人公の地下室人はユートピアの偽善を指摘する。
ユートピアの理想に隠された倒錯的な快楽、 正しいことをすることのエロティックな歓びに 気づいてしまっている。だからそれに巻きこまれない権利を主張する。 kindle位置4326
現実でも、リベラルの偽善を指摘する声が、トランプを英雄に押し上げた。

その後書かれた作品の中では、「悪霊」が重要である。
主人公のスタヴローギンはテロリストだが、なににも関心を抱かない「無関心病」状態である。世界への関心が極限まで高まると、それが突然反転し冷淡な無関心に変わることがある。
社会を変えたいと願う人間から、社会を変えるなんて偽善だと顔を赤らめて罵る人間へ、そして社会なんて変わっても変わらなくてもいいから好きなことをやればよいのだとうそぶく人間へ。ドストエフスキー弁証法は、『悪霊』でそのような第三の主体にたどりついた。 kindle位置4384
グローバリズムの中に生きるビジネスマンは億単位の金を指先一つで動かす。他人の運命への無関心さがなければそのようなことは難しい。なのでスタヴローギンはグローバリズム的である。

最後に考えるべき作品は「カラマーゾフの兄弟」だが、実はこの作品は完結していないので、亀山郁夫山城むつみの作品を元にの「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」を元に、その続編を想像していく。

亀山は、続編は皇帝殺し(暗殺)の物語になるのではと予想する。
その主人公は作品の最後に出てきたコーリャという少年で、彼はカラマーゾフの兄弟の一人アリョーシャを父とした疑似家族(結社)を作り、その中で暗殺を試み、そして失敗する。アリョーシャは結社の指導者にもなれず、暗殺計画を止めることもできない「不能の父」である。

さて、「カラマーゾフの兄弟」にはスタヴローギンに相当するニヒリズムの考えを持つ人物として、イワンが登場する。彼は「神がいて、たとえ未来に救済が来ても眼の前にいるこの子どもの苦しみはなくならない」と存在の固有性に関わる問いをなげかけた。

一方、「少年たち」という章ではイリューシャという少女が登場する。
彼女は野犬の一匹をジューチカと名付けて可愛がったが、あるときジューチカを傷つけてしまい、その後ジューチカは姿を消してしまった。病床に伏せた彼女はそのことをずっと気に病んでいて、周りの子がそっくりな犬を探し出して彼女に贈った。新しい犬はペレズヴォンと名付けられ、ジューチカではないことになっているのだが、イリューシャはひとめ見てそれがジューチカだと確信して大変喜んだ。(本当にジューチカだったかはわからない)

イリューシャの話は、イワンの議論への反駁となりうる。
ジューチカがジューチカだったこと、考えてみればそれそのものが偶然だった。そもそもそれは野犬の一匹にすぎなかった。だからぼくたちは、ジューチカが死んだあとも、もういちど ジューチカ的なるもの を求めて新しい関係をつくることができるし、またそうすべきである。それが生きるということであるkindle位置4677
 
ある子どもが偶然で生まれ、偶然で死ぬ。そして、また新しい子どもが偶然で生まれ、いつのまにか必然の存在へと変わっていく。イリューシャの死はそのような運動で乗り越えられる。ぼくたちは、一般にその運動を 家族 と呼んでいる。 kindle位置4701

そのような意味で、子どもたちに囲まれた不能の父は、不能ではあってもけっして無力ではない。
子として死ぬだけではなく、 親としても生きろ。ひとことで言えば、これがぼくがこの第二部で言いたいことである。 kindle位置4734
親であるとは誤配を起こすということ、偶然の子どもたちに囲まれるということである。

リベラリズムの偽善を乗り越え、ナショナリズムの快楽の罠を逃れたあと、グローバリズムニヒリズムから身を引きはがし、ぼくたちは最終的に、子どもたちに囲まれた不能の主体に到達するのだ。それこそが観光客の主体である。 kindle位置4609