家庭医療専門医の勉強記録

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スポーツと〇〇【スポーツを考える――身体・資本・ナショナリズム】

 

スポーツを考える ――身体・資本・ナショナリズム (ちくま新書) | 多木浩二 | スポーツ | Kindleストア | Amazon 

「イギリスで誕生し、アメリカで変容・拡大した近代スポーツは、いま大きな転換期を迎えている。現実には個々のネーションのなかでの「非暴力モデル」でしかなかったスポーツは、いまや国境を跳び越え、あたかも高度資本主義のモデルであるかのごとき様相を呈している。スポーツと現代社会の謎を解く異色の思想書。」

スポーツを、資本主義、暴力、メディア、身体論など様々な観点から論じた本。
30年ほど前の著作だが、面白い、そして難しい。

スポーツとアマチュアリズム
スポーツとナショナリズム
スポーツをする身体
スポーツと政治
スポーツとアメリ
スポーツとメディア
スポーツと記号論
スポーツと勝敗
スポーツと性差

という小見出しで、気になったところをかいつまんで紹介。

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スポーツとアマチュアリズム

今になるとはっきりしてきたが、長年、スポーツにおいて普遍的な価値をもつと思われてきたアマチュアリズムなる美徳にしても、スポーツを生みだしたイギリスの特権的なジェントルマン固有のイデオロギーであり、感情であった。 kindle位置: 71

このエリートの権威、職業を超えた身分が支えてきた、勝敗にこだわらず、フェアプレイを重んじるアマチュアリズムの礼賛は、スポーツに本来潜在している競争とは矛盾していた。かつて階級と身分の再確認として機能したスポーツは、今や身体的な技量の洗練化や、勝敗へのこだわりにとって代わられるようになるのである。 kindle位置: 405
プロとしてお金を稼ぐところまでいかない(いけない)人がアマチュアだと、なんとなく思っていたがそもそものアマチュアリズムというのは違うらしい。
本書では上流階級の美徳としてフェアプレイをすることを「アマチュアリズム」と記載している。コトバンクだと「金銭の授受を目的にある特定の行為をしたり,それを職業としてはならないとする考え方。」と書かれている。
アマチュアリズム(あまちゅありずむ)とは? 意味や使い方 - コトバンク 

そうした高潔さをスポーツ選手に求める考え方は確かにあって、だからこそ八百長試合などは大きな批判にさらされる。でも一方で巨大な資本がスポーツを支えているのも事実だから、両面がある。

スポーツとナショナリズム

スポーツは一方では近代固有のナショナリズムを乗り越えているが、他方ではあらたなナショナリズムを生みだしてもいる。 kindle位置: 197
オリンピックや国際大会で、国家を聞く選手たち。
一方で、資本主義さながらに国境を超えて移動してもいる。

国家というものの境界を今、破っているのは、あきらかにスポーツであり、そのくせナショナリズムの皮をかぶっているのもスポーツなのである。もちろんこの境界をもっとも打破しているのは、流動する資本にほかならない。そしてスポーツは資本という巨大な力によって動いているものなのである。 kindle位置: 2,059
 

スポーツをする身体

もともとスポーツをする身体の能力は、最初から備わっているわけではなく、当面するスポーツのために育てられ、つくりあげていかねばならないものである。 kindle位置: 454
                
スポーツマンとは「規律・訓練」(ディシプリーヌ) のなかでつくられるものである。 kindle位置: 462

つまりスポーツのなかで形成される身体は、つねにあるフォームを与えられた身体なのである。この身体が能力をもち、同時に規則に服従することになる。フーコーが『監視と処罰』のなかでとりあげる身体は、まさにこうしたフォームを与えられた身体なのである。kindle位置: 477

スポーツに最適化した身体というのは訓練を通じて培われる。それはフーコーが述べたような内的な規則に服従するような形でしか作られない。そういう意味でもスポーツというのは近代社会の産物である、と。

スポーツと政治

オリンピックあるいはスポーツは、その建前としては、つねに政治的中立を主張したし、スポーツはたしかに政治とは無関係に、あるいは政治にはイノセントでありうるものである。ところが現実には次第に世界的規模にひろがった政治文化になっていった。スポーツが政治の文化的表象になるという側面が露出してきたのである。 kindle位置: 677

ロシアによるウクライナ侵攻の後、ウィンブルドン大会はロシア国籍の選手の参加資格を剥奪した。スポーツは政治とは無関係であってほしいと願う気持ちもあるが、現実にはスポーツは政治の文化的表象になっている。

スポーツとアメリ

この特徴――攻撃と守備に明確に分かれて対峙し、誰がプレイしているか、その能力の分かりやすいゲームであり、ヒーローが出やすいこと――がスポーツのアメリカ化にさいして生じた性格かもしれない。 kindle位置: 845
テニス(シングルス)は1対1で、明確にヒーローがわかる。
野球はチームスポーツでありながら、投手と打者の1対1の対決の構図が鮮明。

それに対して、サッカーはチーム対チームで、ヒーロー的存在は野球とかに比べるとわかりにくい。だからアメリカではサッカーは流行らないのでは、とのこと。

スポーツとメディア

スポーツ情報の扱われ方、あるいはそれについての言説は、きわめて修辞的であり、それ自体として意味をもち、それによって流動的ではあるがスポーツに社会的な定義をあたえているのである。 kindle位置: 1,011
大谷のホームランや結婚は、エンタメとして消費される。
オリンピックの開会式は、何か社会的な、神聖なものとして紹介される。

アイスホッケーは目まぐるしすぎてテレビ向きでないからと言って放送する時間を減らすとマイナーなスポーツに転落する。こうした影響力をメディアの権力と言うのである。さらにその力はルールにも及ぶ。
(中略)
典型的なひとつの例がテニスの「タイ・ブレーク」(あるセットが6 vs 6になったときには、最終ゲームは 7 ポイント先にとった方が勝つというルール) であり、テレビが時間を短縮するために提案した試合方法であった。 kindle位置: 1,018
タイブレークがメディアの要請で生まれたとは知らんかった・・・。逆に、ウィンブルドンタイブレークを採用しないのは、格式ある大会としての抵抗なのかもしれない。
(選手の肉体的負担を考えると導入してほしい気もするが)

スポーツと記号論

スポーツについての記号論的分析は、簡単にいうと規則(ルール) とゲームというふたつの領域に向けられうるのである。 kindle位置: 1,080
そもそも記号論というのがよくわかってなかったが、下記を参考にすると、「ある事柄を言葉を用いて意味づけしようとすること=記号現象」を探求する学問のこと。
【記号論とは】ソシュール・パースを具体例とともにわかりやすく解説|リベラルアーツガイド 
いまいち分析の詳細はわからないが、とにかくスポーツはルールとゲームに分けることができるんだと。

つまりボールそれ自体は無意味であるが、それとプレイヤー、および空間の関係は、我有化と排除という、かつて人間の集団において表裏をなして機能していたトーテムを巡る制度の特徴が現れていると言ってもよかろう。 kindle位置: 1,213
ボールスポーツの中でも、ネットを挟んで敵と対峙するテニスタイプのスポーツについての説明。「ボールを自分の空間から排除する」というのがこれらのスポーツの本質なんだと。確かに。

スポーツと勝敗

アラン・エランベールという人物は、サッカー・フーリガンがなぜ生ずるかを論じたときに、スポーツのゲームを「平等から出発して、最終的に不平等に達する過程」と言いあらわしている( 2)。 kindle位置: 1,263
試合が始まる前は、0-0で平等。
引き分けで終わる試合も例外的にあるが、大抵の試合は勝敗がついて不平等で終わる。

これにたいして後半部の過程「+/- 0」を入れたモデルは、まさにイデオロギー的であって、実際に経済的、政治的利害から逃れていないスポーツを、こうした事態にたいしてイノセントであるように見せかけるためのプロパガンダを構成する基盤である。 kindle位置: 1,296
そして、また新しい試合では0-0の平等から始まる。
というのが建前だが、実際は利害が絡むからそうではない、と語られる。

スポーツと性差

現実の問題として、女性と男性の記録の差異がどれほど縮まっているかが、ひとつの資料になる。ガットマンによると、それはデーターであきらかなように、年を追って縮まっている。 kindle位置: 1,579

スポーツにおける男女の差異を問題にするとき、この差異が生理学的なのか、歴史的、文化的なのか、多くの意見が合意できないままでいる地点があることはたしかである。 kindle位置: 1,587

スポーツは、差別なき性差を含んだ身体文化という枠組みで語るべきゲームなのだが、この身体文化はある程度は経験されていても言語として分析の装置になっていない。身体が生成する文化はどうしても性の差異を含み込まないわけにはいかない。 kindle位置: 1,635
テニスでも男女の賞金の差が問題になることがある。
四大大会は平等だけど、ほかの大会では格差がある。
男女の賞金差「非常に大きい」
四大大会は男子5セット、女性3セットで身体的・時間的負担等に明らかな差があるのだから、個人的にはむしろ四大大会は賞金差があってもいいのではと思わなくもないが、確かに男女平等の観点からは同じ3セットマッチの大会は平等な方がいいと思う。
ただ、エンタメという観点から考えると、より観客を動員できる方が賞金が大きいのは自然ではある。きちんとしたデータはぱっと見つけられなかったけど、テニス中継を見る限り、確実に男子の方が動員数は多い。
実際スポーツ間の賞金の格差はものすごいわけで、人気スポーツの方が儲かるのは資本主義的には自然ではある。小さな大会だと賞金を高くして人気選手を呼びたいわけで、そうすると必然的に男女差がついてしまうのかもしれない。(四大大会は選手側からしたら絶対出たい憧れの大会だから、そうした配慮をする必要がない)