家庭医療専門医の勉強記録

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愛し(かなし)【私とは何か 「個人」から「分人」へ】




「マチネの終わりに」などで有名な小説家の平野啓一郎が、書いた本。

「分人」という概念は非常にわかりやすく、よく引用している。


読み終わったのは大分前だが、一度しっかりまとめておきたい、と思いブログを書くことにした。

要約

人は自分のことを「個人」という単一の存在で規定しがちであるが、実態とは異なる。人はその時々のシチュエーションに応じてその都度「分人」を無意識に発生させて対応している。不特定多数に向けた未分化な分人もあれば特定の相手に向けた分人もあるが、それらも固定された存在ではなく、相互に影響しあって日々変化している。
分人という考え方を導入すると、世界の見え方が変わり、生きやすくなる。

個人・分人

個人individual
=in(否定)+dividual(分ける)
=本来は「分けられないもの」という意味だった。

これ以上分けられない最小単位としての個人。
しかし、例えば赤ちゃんと接する時と大人と接する時のように、相手によって(自然と)異なる自分が現れることは、実生活ではよくあることである。

そうした対人関係ごとの様々な自分のことを、本書では「分人dividual」という造語で呼ぶ。(正確には必ずしも人である必要はなく、動物・環境・作品など相対するものに応じて分人は生まれる)

*キャラや仮面との違い

キャラ=演じられた自分    仮面=かりそめの顔

キャラや仮面という言葉には、それらは表面的なもので、奥に「本当の自分」がいる、ということが含意されている。しかし、この発想にはいくつかの問題がある。

①キャラや仮面を意識的に使い分けることは出来ない。
苦手な上司の前ではどうしても萎縮してしまう。仲の良い相手といると、笑顔が増える。赤ちゃんがいれば、自然と赤ちゃん言葉で声をかける。
これらは自然となってしまうものであり、意識して使い分けているわけではない。

また、キャラや仮面という言葉は、硬直的で変化しない印象を与えるが、実際には人間関係は時間とともに変化しうるものであり、その点でも無理がある。

②誰とも「本当の自分」でコミュニケーションを図ることができない。
仮に表面的に現れる自分がキャラや仮面なのであれば、すべての人間関係がキャラ同士、仮面同士の化かしあいになってしまう。
そうすると「本当の自分」が出てくる場面がなくなり、実体がないものになってしまう。

*自然でリラックスできる相手といるときの自分が「本当の自分」でほかはかりそめだ、という考え方もあるとは思うが、それはその相手といるときの「分人」が快適だ、という言葉で置き換え可能である。


これらのことから、キャラや仮面という言葉よりも、分人の方が実情に即している。

分人の種類

・社会的な分人
不特定多数の人とコミュニケーション可能な、汎用性の高い分人。
相手:同じマンションの見知らぬ住民、コンビニ店員など。
未分化な状態。
社会的な分人は生育環境により異なる。

・グループ向けの分人
一般的に人間関係は組織や集団を介して広がっていくものであり、そのグループに応じた分人が必要となる。
相手:会社、学校、オンラインサロン、趣味仲間、など。

・特定の相手に向けた分人
最も分化した状態。ここまで進まないことも多い。

その他印象的だったところ

誰とどうつきあっているかで、あなたの中の分人の構成比率は変化する。その総体が、あなたの個性となる。
人間関係が上手くいかないとき、分人の構成比率を変えることで、変化が生まれうる。
例:自分探しの旅→新たな分人が生まれ、それが既存の分人にも影響する。
        引きこもる→分人が減る。

私たちに知りうるのは、相手の自分向けの分人だけである。
どんなに親しい相手でも、相手には自分が知らない一面がある。
どんなに嫌なやつだと思っても、それが相手のすべてではない。

あなたが語りかけることが出来るのは、相手の「あなた向けの分人」だけである。その一方で、あなたの言葉は、相手の「他の様々な人向けの分人」に常に曝されている。
あなたは目の前の「あなた向けの分人」だけではなく、その相手の「他の様々な人向けの分人」を介して他の人にも影響を与えうる。

どんなに子供がかわいくても、家に閉じこもって、毎日子供の相手ばかりしている(=子供との分人だけを生きている)と、気分転換に外に出かけて、友達と食事でもしたくなるだろう。
専業主婦の育児疲れの例。
どんなに仲の良い相手でも、同じ相手向けの分人だけで過ごしていると、疲れてしまう。

人は、なかなか、自分の全部が好きだとは言えない。しかし、誰それといる時の自分(分人)は好きだとは、意外と言えるのではないだろうか?    逆に、別の誰それといる時の自分は嫌いだとも。そうして、もし、好きな分人が一つでも二つでもあれば、そこを足場に生きていけばいい。

RADWIMPSの「愛し(かなし)」に、こんな歌詞がある。
「自分より好きな君がいる」今の僕が好き
君といるときの、「君向けの分人」が好き。
そうした相手が一人でもいると、生きるのがすごく楽になる気がする。
その相手は必ずしも人じゃなくてもいい。動物でも作品でも環境でもいい。

あなたが故人と長年親しくしていたなら、あなたの中には、彼との分人がまだ消滅しきれずに存在している。その分人が感じ、考えることは、必然的に故人の影響を被っている。故人の口癖や考え方がうつっている。つまり、あなたの語る言葉は、半分は自身のものでありながら、やはり半分は故人のものなのだ。
以前いた診療所で、ある高齢女性の患者さんが急逝した。
山菜採りに出かけたきり家に戻らないので家族や近隣の人が捜索したところ、山で倒れているのが見つかった。
突然の別れに、娘さんは戸惑いを隠せず、その後1年間ほどは外来に受診するたびに涙を流していた。
徐々に元気を取り戻した娘さんは、「家にいると、まだ母が傍にいる気がするんです」と言っていた。

特定の相手に向けた分人は、その相手と(死別に限らず)別れた後でも自分に影響を与え続ける。