家庭医療専門医の勉強記録

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雑毒の善と贈与とクリスタ【歎異抄:100分de名著】


 
 
久々に100分de名著シリーズを読んだ。

悪人こそが救われるという「悪人正機説」で有名な親鸞だが、
今回読んで印象的だったのは別の部分。



今生 に、いかにいとほし 不便 とおもふとも、 存知 のごとくたすけがたければ、この慈悲 始終 なし。
 (この世に生きている間は、どれほどかわいそうだ、気の毒だと思っても、思いのままに救うことはできないのだから、このような慈悲は完全なものではありません。)
(中略)
「雑毒(ぞうどく)の善」という言葉がありますが、自分の都合が入った善であるという意識なしに、つい善いことをしている気分になって満足するなというのです。
24-25p
 
「雑毒の善」
煩悩の毒の混じった善のこと。人間の努力はすべて「雑毒の善」で、真実の業ではないので、その努力は完成することがない、と親鸞は説く。「虚仮雑毒の善を以て無量光明土に生ぜんと欲する、これ必ず不可なり」
36p

医療の仕事をしていると、よく患者さんから感謝の言葉を頂く。医師は他の医療職からも気を遣われ、「先生」と持ち上げられる。
やりがいを感じる仕事ではあるが、自分がやっている医療行為は、自己都合が必ず混じっていて、純粋な奉仕ではない。
医療職だけでなく、保育士とか、教師とか、母親とか、「純粋な奉仕」を求められがちな人は、そうしたイメージと自己都合とのギャップに悩みがちかもしれない。

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この文をみて、以前読んだ本を思い出した。

上記の本(贈与本と呼称している)では、贈与の重要性が色んな角度から説明されている。贈与を受け取ること、そしてメッセンジャーになること。

じゃあ自分はちゃんと贈与を受け取り、誰かに届けられているのか。

例えば、子どもに対して。
子どものために何かするとき、特に金銭的な見返りは求めてないが、でも笑顔だったり元気な姿だったり、そうした見返りは受け取っている。
見返りなしでも純粋な贈与をできている場面もあるが、見返りを求めてしまっているようなときもある。

純粋な気持ちで贈与ができればいい、と思いつつも、「そこまで悟ったようなことはできないだろうな」と冷めた思いもある。


自己都合を捨てる努力をする、偽善にならないようにする。
でも、どこまでいってもある種の偽善であることには自覚的になる。

そんな面持ちが重要だろうか。
 

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進撃の巨人のワンシーンも思い出した。
進撃の巨人 4巻)

ユミルに反論してみる。
「確かに私は「いいこと」をしようとしている。いいことをして、役に立つ人間だと思われるという見返りを求めてしまう気持ちもある。だから純粋な奉仕ではなく、偽善だと思う。でも、できるだけ純粋な奉仕ができる人間でありたいと願っているよ。」

こんな自己分析するクリスタは、キャラとしての魅力は激減しそう。