家庭医療専門医の勉強記録

医学・非医学問わず、学んだことを投稿しています。内容の間違いなどありましたらご指摘ください。また、内容の二次利用については自己責任でお願いします。

【さよなら妖精/亜人】すべての人間が無意識に他人の命の重さを秤にかけてる けど・・・



一九九一年四月。雨宿りをする一人の少女との偶然の出会いが、謎に満ちた日々への扉を開けた。遠い国からはるばるおれたちの街にやって来た少女、マーヤ。彼女と過ごす、謎に満ちた日常。そして彼女が帰国したとき、おれたちの最大の謎解きが始まる。覗き込んでくる目、カールがかった黒髪、白い首筋、『哲学的意味がありますか?』、そして紫陽花。謎を解く鍵は記憶の中に――。忘れ難い余韻をもたらす、出会いと祈りの物語。著者の出世作となった清新なボーイ・ミーツ・ガール・ミステリ。
(作品紹介より)


マーヤという異質な存在と過ごした、たった2か月の青春と、その後のエピローグ。
切ない余韻の残る小説でした。

印象的だったシーンを幾つか。
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勝ち負けと、正しさ

弓道の試合で、主人公は顧問の先生に、集中力を欠いたけど当てたときは怒られ、集中したけど外したときは褒められた。そのことについてマーヤから聞かれたときの返事。

「確かににおれたちがやったのは試合だから、勝ったほうがいい。そこはマーヤさんの言う通りだけど、勝つなら正しく勝たないとよくないと考えるんだ。そして時には、間違った方法で勝つより正しい方法で負けたほうがいい、とまで考える。    84p

このあたりの考え方、感覚的にはよくわかる。ある意味で日本の美徳のようにも思う。
でも、第二次世界大戦の神風特攻隊のような場面でもある意味悲劇的に用いられることもある。

それを聞いて、マーヤからの返答。

ユーゴスラヴィヤの国の一つ、 Srbija には有名な戦争があります。その戦争の王様は英雄です。でも、本当のことについていうと、その戦争は負けました。それに似ていますね?    85p

日本の武士道精神は、ある意味で西洋の騎士道精神とも似ているのかも。

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近いようで遠く、遠いようで近い

マーヤが、あちこちの国で、「哲学的意味」を見て回っているのはなぜなのか?
その答えとして、マーヤは自分の境遇でしかできないことをやろうとしているのだ、と言う。その会話の最後の一言。

「……わたしは、政治家になるのです」    131p    

一緒に過ごす日々の中で、主人公の中でマーヤは遠いようで近い存在になっていたが、この一言で逆に近いようで遠い存在であることが浮き彫りになったように感じる。

僕は妻を愛しているが、妻と妻の家族との関係性や、妻の考え方など、わかるようでわからないこともある。僕は息子を愛しているが、小学生である彼の見ている世界は、きっと僕とはまるで違う。
ユーゴスラビアは行ったこともないしこれからも多分行かない遠い場所だが、テニス界のレジェンド・ジョコビッチ選手の故郷であり、彼のプレーは何度も画面を通してみており、そういう意味ではなんとなく近しい部分もある。

人は遠いようで近く、近いようで遠い存在なのだ、と思う。


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幸福そう??

主人公(守屋)と大刀洗が、マーヤが戦争の落ち着かないユーゴスラビアに帰ろうとしている、という会話をしているシーン。
ユーゴスラビアに帰るのを止めたほうがいいのでは、と考える守屋と、本人が考え抜いた結論なのだから止めるべきではない、と考える大刀洗。
守屋は、俺が死ぬとしても、お前はそうして突き放すのか、と大刀洗に言う。大刀洗は、そんな思い付きの出来の悪い仮定には答えられない、と言う。

太刀洗はふと立ち止まると、今度ははっきりと笑った。そして振り向き、耳打ちのように、こう囁いた。 
「ねえ守屋君。……あなた、幸福そうね?」     
ああ……。     
その後は、全く勉強にならなかった。    212p

この「幸福」がどういう意味で使われているのか?最初あまり分からなかった。
あまりポジティブな意味では使われてなさそう。

本書の冒頭で、「衣食足りて礼節を知る」というワードが出てくる。
生まれたときから衣食が足りている人間は、どのようにしたら礼節を知ることができるのか。満ち足りた世界で、やることがないから自殺するSFの話の話題も出てくる。

そう考えると、「守屋が衣食足りた”幸福”な人間だからこそ、自分が死ぬなどというセリフが出てくるのだ」、という大刀洗の皮肉なのかもしれない。


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肉親を殺された恨みと、奪われたお金

ユーゴスラビアはなぜ解体しようとしているのか。
南北で経済格差があり、北が南を養っている構図があるのが一因だとマーヤは分析する。
そしてこう述べる。

「人間は、殺されたお父さんのことは忘れても、奪われたお金のことは忘れません」    226p

一見すると納得できないフレーズ。
でも、何世代か前まで戦争で殺しあってきたことは忘れても、現在経済的に負担を課せられて苦しい生活を余儀なくされていることは忘れない、と解釈すれば納得できる。
日本も何世代か前までアメリカと第二次世界大戦で殺しあったけど、そのことをいまだに恨んでいる人は(良くも悪くも)多くない。でも、IT分野で大きく後れを取って経済的に後退してしまったこをは忘れられない。


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手の届く範囲

ユーゴスラビアに戻り、連絡が途絶えたマーヤに連絡を試みようとする守屋と白河に対して、文原は自分はそこまでできないと手紙を送る。その中の一文。

俺は、自分の手の届く範囲の外に関わるのは嘘だと思っている。どうやら俺は重度に農民的らしい。    287p

7つの習慣とか、自己啓発書に似たようなフレーズが書いてあった気がする。
曰く、自分が影響力を及ぼせる範囲のことを考え行動すべきであって、その範囲外のことを考えても無駄である、と。
合理的で論理的な判断だと思うが、ある種の冷徹さというか、感情はそこまで割り切ることは難しいようにも思う。

これに関連して、思い出した漫画があるので下記に載せる。

亜人    9巻)

この漫画の中で、主人公(永井)が言っているように、

すべての人間が無意識に他人の命の重さを秤にかけてる

これは本当にそうだと思う。(聖人君子なら違うかもしれないが)

僕も、緊急事態に巻き込まれたりしたら、他のどんな人よりも家族の命を優先してしまうと思う。
でも、だからといって、命の平等さを理念として目指すことは破棄してはいけない、とも思う。
たとえ現実には決して平等に扱えなかったとしても、理念としての平等さはあくまで掲げ続けるべき、と思う。