家庭医療専門医の勉強記録

医学・非医学問わず、学んだことを投稿しています。内容の間違いなどありましたらご指摘ください。また、内容の二次利用については自己責任でお願いします。

【死んだらおしまい】反・エピクロス

 
 応用哲学を学ぶ人のために 


上記書籍の中の「死んだらおしまい—形而上学と死生学と応用哲学と」という論考を読んだ感想。


感想

エピクロスの「死は害悪でも利益でもない」という考え方は聞いたことがあるし、確かにそうかもなと思う節もあったが、それを殺人とか死刑に拡大適用するとこんなにもおかしなことになるのか、というのがすごく興味深かった。

死者と生者には決定的な落差があるけど、死者も完全な消滅ではなく存在がおぼろげに残る、というのは自分の死生観とも合致するように思った。
「一人称としては消滅するけど二人称・三人称としては残る」という言い方でもいいかもしれない。意外と魂的なものを素朴に信じているんだなぁと改めて感じた。

安倍元総理の事件直後でもあり、死について改めて考えるきっかけになった。

要約

死はネガティブな事象としてだけでなく、ポジティブに語られることもある。

〇死が「苦しみからの解放」「利益」ととらえられるとき
自殺
道徳的評価は別にして、事実として、「自殺」は本人にとっては、それ自体としてはやはり何か、より安寧な状態を達成するためのプロセスとして理解されているということなのである。    84p

安楽死
主には病による、苦痛からの解放を求めて死にたいと思うとき、安楽死というワードが出てくる。

・不老不死
フィクションでよく語られるように、決して死ねないことで起きる苦痛というものもある。 家族や知り合いが全て死に絶える中自分だけが死ねない。

〇死が「害悪」としてとらえられるとき
・殺人
害悪だからこそ罰の対象になる。

・死刑
死が害悪だからこそ、その最大の害悪を与えることが最大の刑罰になる。

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死が利益であるとすると、それを求めて「死ぬ権利」と呼ばれる権利概念が生まれる。
ただしそこには難点がある。

1.生命の所有権
西洋的な人権思想に従うならば、私たちの生命それ自体は神によって創造されたものであって、私たちの所有するものではない。     89p
所有権のないものを自由に扱う権利もない、つまり死ぬ権利もない、ということになる。

2.譲渡可能性
権利概念には本質的に譲渡可能性が含まれているが、「死ぬ権利」の元となっている「生命への所有権」は譲渡可能性がそもそもあり得ない、よって「死ぬ権利」は意味不明の混乱した概念である、という困難である。     89p
臓器移植はできても、生命そのものの移植はできない。
生命を譲渡されて、二つの生命を所有することはあり得ない。

3.利益の享受
権利概念には、それを行使した後で権利主体がその利益を「享受する」ということが含意されているが、「死ぬ権利」の場合、それを行使した途端に権利主体が消滅してしまい、享受するものが存在しなくなる、という構造的矛盾を抱え込んでおり、権利概念として破綻している、という困難が指摘できる。     90p
死ぬのが利益だとしても、死んだら存在が消滅するので、利益を享受できない。

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一方、死が害悪だという点についても、疑念が提起されうる。
エピクロスは「死は利益でも害悪でもなんでもない」という「死無害説」を展開する。
なぜなら利益や害悪を被る対象が消滅してしまうからである。

しかし、この「死無害説」も、具体的ケースを考えると、困ったことになる。

1.殺人
死んだら存在しなくなるのであるから、殺された被害者なるものはいないのである。害もないし者もいない、という二重の意味で、殺された被害者なるものは存在しないのである。    91p
もちろん殺された人の遺族や関係者は害を受けるから、そういう意味では加害行為だが、直接の被害者は存在しない。そうすると重い罰として認定することも難しいかもしれない。

2.死刑
死刑が執行されると受刑者は存在しなくなるので、そもそも刑罰として成り立たない。
「死刑不可能論」という言い方もできる。

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しかし、こうした考え方は、常軌を逸しており、現実的ではない。
であれば、この主張を論破する必要がある。

その際、死者に対して存在論的(オントロジカルな)身分を認めることで、「死無害説」をかわす、という道筋が模索されている。

1.ケンブリッジ変化
実在的ではない、記述上の属性変化のこと。
例:ルソーは、人権の概念を前に進めた偉大な人物だが、コテンラジオを聞くことにより「変態紳士」と記述される場面が増える(かも)。でもルソーという死者に実在的な変化が生じたわけではない。
https://podcasts.apple.com/au/podcast/49-%E5%A4%A9%E6%89%8D%E6%80%9D%E6%83%B3%E5%AE%B6%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%A6%E5%A4%89%E6%85%8B%E7%B4%B3%E5%A3%AB-%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%BC-coten-radio/id1450522865?i=1000449428361
 
歴史を面白く学ぶコテンラジオ (COTEN RADIO): #49 天才思想家にして変態紳士・ルソー ― COTEN RADIO on Apple Podcasts
Show 歴史を面白く学ぶコテンラジオ (COTEN RADIO), Ep #49 天才思想家にして変態紳士・ルソー ― COTEN RADIO - 11 Sept 2019
podcasts.apple.com

このことを考慮に入れると、例えば殺人罪を問わないことは、被害者に対して「ケンブリッジ変化」としての害悪を与えている、と解釈することが可能。

2.四次元枠
人間を四次元的存在とするなら、死者も過去という時間の中で存在が確保されることになり、害悪の対象となりうる。
(難しくてよく理解できてないかもしれないので、あくまで私の解釈)

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このように死者のオントロジーを確立していくと、死ぬことによる、なくなってしまう、消えてしまう、という消滅性を薄めてしまう。
しかし、当然ながら生者と死者は全面的に同等な存在とみなすことは難しく、やはり落差がある。



【メモ】漢方のおすすめ勉強リソース

後輩の先生から漢方の勉強法について質問を受けたので、備忘録として残しておく。

 

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とりあえず困ったときに病名や症状から漢方をさっと選ぶのは①が便利です。僕はM2PLUSというアプリにインストールしています。

www.amazon.co.jp

 

体系的にまとまっているのは②です。ただ独学で通読するだけだとピンと来ないかもしれません。

www.amazon.co.jp

 

一番のおすすめは③の中の「入門カンファレンス」を通年で受けることで、多分これが一番見につくと思います(②の書籍と連動している)。
ただ今からだと年度途中からの参加になってしまい内容についていくのが(若干)大変かもしれません。あと残念ながらアーカイブ配信がないので、ライブ配信に参加する時間を確保しないといけません。

飯塚病院漢方診療科 講演会aih-net.com

 

僕自身は④(や関連シリーズ)をたくさん視聴しました。②ほど体系的ではないですが、いろんな角度から漢方を学べて勉強になります。ちなみに動画は何十時間もあります。

carenetv.carenet.com

 

⑤「プライマリケア実践誌」の漢方連載は①の著者の吉永先生が書かれていて、各論中心という感じです。

下記2つは僕もまださほど見れてませんが、興味のあるコンテンツがあれば見てみてもいいかもしれません。

www.kotaro.co.jp

www.youtube.com

 

 

まとめると、結論としては②+③の合わせ技か、④を視聴するか、あたりから学ぶのがおすすめです。

 

あ、ちなみに漢方は結構いろんな流派があるみたいで、少しずつ使われる言葉も違う印象があります。最初はある程度同じような流派から勉強した方が混乱しにくいかも。

 

【学会メモ】患者中心性を掘り下げるー家庭医療学の柱に立ち返る実践と教育ー



第13回日本プライマリケア連合学会の下記セッションを、オンデマンドで視聴した。
【患者中心性を掘り下げるー家庭医療学の柱に立ち返る実践と教育ー】
https://jpca2022.org/
 
JPCA 2022 | Japan Primary Care Association | June 10 - 12, 2022 | Join us in Yokohama
The 13 th Annual Conference of Japan Primary Care Association is commencing on June 10 2022. Join us in-person or online!
jpca2022.org




私的まとめ

1.患者が相手によって言うことが変わるのは、「分人」的発想からすれば当然である。
2,患者を言葉通り全人的に診ることは不可能だが、全人的に診る努力はすべき。
3.患者を診るとき、医療者もすでにシステムに組み込まれている(network dive)ことを忘れてはならない。




①立場性について

患者(やその家族)が、医師を相手にするときと、他職種を相手にするときで、会話の内容が異なるという話題があった。
*救急搬送の有無、侵襲的な治療の有無など、時に重大な決定が必要となる医療現場において、方針ははっきり決まってた方が悩まないで済むので楽であり、方針が定まらないことは敬遠されがち
それは患者が方針に悩んでいる、という要素もあるかもしれないが、それ以外に医療職の「立場性」というものが関与しているかもしれない。
患者にとって医師が「方針を決定する」人であれば、その決定に従う(又は反対する)発言をし、他職種が「ともに悩む」人であれば、悩みを吐露して答えの出ない問いを共有しようとするかもしれない。


これは、平野啓一郎さんの提唱する「分人」という考え方でも説明可能なように思った。
患者の中の「医師に対する分人」と、「他職種に対する分人」は異なる。そしてそれは今までの医療職との関わりに影響を受ける。
私とは何か    「個人」から「分人」へ 
https://booklog.jp/users/1d2b5cb30c77399e/archives/1/B00APR9D7Y
 
こばさんの感想・レビュー
こばさんの平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ (講談社現代新書) [電子書籍]』についてのレビュー:...
booklog.jp




②患者を全人的に診ること

家庭医療学は、従来の医学が疾病ばかりに着目し、患者の個人的側面を疎かにしてきたことへのカウンターとして生まれた。
そのため、患者中心の医療の方法(Patient Centered Clinical Method)など患者を全人的に診るための手法が開発されてきた。

しかし、そもそも患者の全体像を完全に捉えることは可能なのだろうか。
「全体」というのをどの範囲で考えるかにもよるが、言葉通り「患者のすべて」と考えるなら、不可能であるのは自明であるし、傲慢ですらある。

千葉雅也さんは「勉強の哲学」において、人間には真理を知りたいという欲望があり、アイロニー=ツッコミをしていくが、それが過剰になるとナンセンス(無意味)になってしまう、というようなことを語っている。
勉強の哲学    来たるべきバカのために    増補版 
https://bc-liber.com/blogs/9912460001e6
 
 

読書ログ「勉強の哲学 来たるべきバカのために 増補版 (文春...

こば
09/03 21:08
 

要は、人間は「全体像」を求めて真実に近づきたいという欲望を持っているが、それは到達不可能だということである。
だからと言って、全人的に診ようという方向性が間違っていると言いたいわけではなく、全体像を掴もうとしつつも、謙虚さを忘れないようにするべきだと思う。




③客観的・科学者的視点と、network diverについて

患者の全体像を捉えようとするとき、医療者は外側から観察するような視点になりがちであるが、医療者自身も患者の全体像の中に組み込まれていることを忘れてはならない。

このことについて、思い出すのが「聖なるズー」という書籍のことだ。
聖なるズー 
https://booklog.jp/users/1d2b5cb30c77399e/archives/1/4087816834
 
こばさんの感想・レビュー
こばさんの濱野ちひろ『聖なるズー』についてのレビュー:【要約】性暴力被害の経験のある著者が、自らの経験を乗...
booklog.jp

本書は、「性暴力被害の経験のある著者が、自らの経験を乗り越えるために、性や愛に関して学術的に研究しようとする中で、「動物性愛」というテーマに出会い、その当事者(ズーという団体)のインタビューのためにドイツに滞在した」という本である。

主題とは直接的には関係ないが、エピローグで、著者が当事者と別れる際にプレゼントをもらい、号泣してしまうというシーンがある。
私にはズーを通してセックスや愛を考えたいという個人的な目的があって、そのためにはいつも客観的であることを心がけねばならなかった。だが、人間同士が出会い、かかわるとき、常に客観的立場を押し通せるものではなかった。    kindle位置No.3056

客観的であろうとすることの難しさは、日々の臨床でもよく感じる。

僕らは患者を全人的に診ようと思い、できるだけ客観的に診ようと心がけるが、でも実はすでに僕らも全人的なシステムの中に組み込まれている。
このことを、僕の尊敬する松岡史彦先生は、著書の中で、「network diver」という言葉で表現されている。
プライマリ・ケア‐地域医療の方法‐ 
どちらかというと僕の中では飛び込む(dive)というよりは巻き込まれる(involved)という感じだが、どうせ巻き込まれるなら自ら飛び込もう!というメッセージなのかも。


実り多い講演でした。ありがとうございました。

【メモ】EBMの誤謬

 

 応用哲学を学ぶ人のために


上記書籍の中の「臨床治験を哲学する—EBMと”証拠のヒエラルキー”」という論考を読んだ感想のメモ。

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EBM(Evidence based medicine)とは、臨床研究などのデータを元にして医療を行うという方法論のこと。
研究の中でも特に重要視されるのがRCT(ランダム化比較試験)。 


(画像はhttps://cmj.publishers.fm/article/21576/ より引用)

RCTは患者を治療する群としない群にランダムに割り付けて、治療介入以外の要素の偏り*をなくすことで、治療の効果を正しく評価しよう、という手法。
*性別、年齢などのわかりやすい要素や、現在の科学では解明されてない未知の要素も含む

ただ、「ランダムに割り付ければ」それらの要素は偏りが生じないかと言えば、そうとは言い切れない。
ランダム割り付けを無限回行えば、偏りは防止できるだろうが、1回だけのランダム割り付けでは大きく偏ってしまう可能性は否定できない。

このようにRCTは原理的に問題を抱えている。
・・・と書いてあったし、確かにそうだと思ったのだが、コンピュータを使えば無限回のランダム割り付けもできるのでは?という気もする。実際のStudyではどうなんだろうか。

この論考ではRCTをヒエラルキーの頂点に置くのではなく、様々な研究方法を公平にみて、その場その場に適した手法を「方法のカタログ」から選ぶのが良いのでは、と提案している。
・・・具体的なイメージは浮かばないが、面白そうな試みだと思う。

【応用哲学を学ぶ人のためにー幸福の形式】メモ

 

 応用哲学を学ぶ人のために

以前読んだ本で引用されていた本。

https://bc-liber.com/blogs/bf6cbb9b657d
 
 

哲学と思想の森

「幸福」の解像度を上げよう

こば
06/04 18:22
 



上記書籍は、パート毎に執筆者が異なる。
この中の「幸福の形式」という論考を読んだ感想のメモ。

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幸福(客観的幸福)と、幸福感(主観的幸福)は違う。

麻薬でトリップして、幸福なまま死ねば、主観的には幸福だが、客観的には幸福とは言い難い。

逆に経済的余裕があり、家族円満で、仕事も充実して、すべてに恵まれて客観的に幸福であっても、主観的には不幸ということもありうる。

ただし真に客観的ということはあり得ず、あくまで多くの人が合意する、間主観的なものにとどまる。

仏教が目指すところの一つは、自我の境界線の曖昧さを認識すること(無我)であるから、その主観と客観の垣根が取り払われた境地なのかもしれない。

【読んでいない本について堂々と語る方法】自分語りしよう。


 読んでいない本について堂々と語る方法 



要約①読んだ本と読んでいない本のグラデーション

本を読んだ=「ある本について完全に理解した状態」
本を読んでいない=「ある本から全くの影響を受けていない状態」
と仮に定義すると、
その両極のどちらに位置することも難しいと思われる。
(本書ではこのような定義は使われておらず、あくまでブログ作者の仮定義です)

ある本について完全に理解するということは、その本が書かれた当時の社会状況や作者の状況といった背景から、作者の思いまでをもすべて理解するということになるが、それはたとえ作者本人であっても無理だと思われる。

ある本から全く影響を受けない状態というのは、たとえその本の存在を知らないとしてもなさそうである。なぜなら世界はつながっており、全く他者の影響を受けない存在というのはあり得ないから。
例:アフリカの奥地で暮らす言葉を持たない先住民も、気候変動に影響を受ける。気候変動に影響を与えている大企業で働く社員、昔読んだ絵本が彼の人格形成に影響を与えている。彼の人格は彼の仕事ぶりに影響を与える。つまり、その絵本はアフリカの先住民に影響を与えている。

そのため、すべての人間はその両極端の間のどこかに位置することになる。


要約②本を読むのは良いことなのか?

とはいえ、できる限りある「本を読んだ」状態に近づくことが理想だと思われがちだが、トレードオフを考えるとそうでもない。

どんなに熱心な読書家においても、ある本を手に取り、それを開くということは、それとは別の本を手に取らず、聞きもしないということと同時的である。    27p


また、本にのめりこみすぎることにも弊害がある。

「書物内容のディテールに迷い込んで自分を見失う」    279p


つまり、本を読むことは必ずしも良いこととは限らない。
では、どうすればいいのか。


要約③3つの図書館と、3つの書物

<共有図書館>

ある時点で、ある文化の方向性を決定づけている一連の重要書の全体    35p

教養とは、書物を<共有図書館>のなかに位置づける能力であると同時に、個々の書物の内部で自己の位置を知る能力である。    66p

*個々の書物の内部で自己の位置を知る能力:個々の書物の全体像をつかむ力?

<内なる図書館>

三つの<図書館>のうちの<共有図書館>につづく二つ目のもので、個々の読書主体に影響を及ぼした書物からなる、<共有図書館>の主観的部分である。    123p

それにもとづいてあらゆる人格が形成されるとともに、書物や他人との関係も規程される。    121p


<ヴァーチャル図書館>

書物について口頭ないし文書で他人と語り合う空間である。これは各文化の<共有図書館>の可動部分であって、語り合うものそれぞれの<内なる図書館>が出会う場に位置している。     195p



<遮蔽幕(スクリーン)としての書物>

われわれが話題にする書物は、「現実の」書物とはほとんど関係がない。それは多くの場合<遮蔽幕としての書物>でしかない。    84p

われわれの書物についての言説の大部分は、じつは書物について発せられた他の言説に関するものであり、これもまたさらに別の言説に関するものであって、この連鎖には際限がない。    86p


<内なる書物>

本書で扱う三種の<書物>のうちの二番目のもので、われわれが書物に変形を加え、それを<遮蔽幕としての書物>にするさいの影響源となるものである。    137p

新しいテクストの受容にさいしてフィルターの役割を果たし、テクストのどの要素を取り上げ、それをどのように解釈するかを決定する。    136p


<幻影としての書物>

これは、われわれがある書物について話したり書いたりする時に立ち現れる、あの変わりやすく捉え難い対象のことである。<幻影としての書物>は、読書が自らの<内なる書物>を出発点として構築する様々な<遮蔽幕としての書物>同士の出会いの場に出現する 。    241p



整理すると、
ある文化のある時点での重要書が収容されているのが<共有図書館>で、そこにある書物が<遮蔽幕としての書物>だが実体があるわけではない。
個人の内面を規定する主観的なものが<内なる図書館>で、そこに属する<内なる書物>が新たな書物を読むうえでフィルターの機能を果たす。
他者との対話の際に生まれるのが<ヴァーチャル図書館>で、そこで対話の対象となっているのは<幻影としての書物>である。

↓対応表(241pの記載を元に作成)

要約④本を触媒に、創造(自分語り)を行う

著者は本書を通じて創造の重要性を伝えたかったとのこと。

重要なのは書物についてではなく自分自身について語ること、あるいは書物をつうじて自分自身について語ることである    264p

みずから創作者になること—本書で私が一連の例を引きながら確認してきたことが全体としてわれわれを導く先は、この企てにほかならない。
    というのも、読んでいない本について語ることはまぎれもない創造の活動なのである。    269p

 

本について語るとき、本は触媒の役割を果たす。

そして、(読んだ本と読んでいない本の境界の不明瞭さ、本を読むことのピットフォールなどを考慮すると)、読んでいない本であっても、臆することなく創造を行ってよいのである。

感想

普段左脳ばかり使っていて右脳を有効活用できてない僕としては、今まさに行っている読書ログ活動も創造的なクリエィティブな活動だと言ってもらえて励みになった。

そして、引用文を使ったりしてできるだけ客観性を持たせようとしても、切り取り方や引用した上での要約方法などはやはり僕の主観であって、読書ログは<内なる書物>の執筆作業なんだと思った。

読書ログを書く本はそれなりにしっかり「読んだ本」であることが多かったけど、「読んでいない本」寄りの本であっても、臆することなく創造していきたい。

あと、(位置づけや全体像を把握するだけの)読まない読書も、(細部にこだわる)読む読書も、その時々に応じて楽しみながら読書ができるといいなと思った。

【漫画ログ:6月に買った漫画】へうげもの~茶道体験のススメ

6月に買った漫画は12シリーズでした。

 
 
この中から一冊だけ、へうげものを紹介します。

https://books.rakuten.co.jp/rk/5e33bd47a6c943168eed10f65b633714/
 
へうげもの(1) (モーニング)
山田芳裕 | 2012年07月15日発売
books.rakuten.co.jp
群雄割拠、下剋上の戦国時代。立身出世を目指しながら、茶の湯と物欲に魂を奪われた男がいた。織田信長(おだのぶなが)の家臣・古田左介(ふるたさすけ)。天才・信長から壮大な世界性を、茶聖・千宗易(せんのそうえき=利休)から深遠な精神性を学び、「へうげもの」への道をひた走る。生か死か。武か数奇か。それが問題だ!!
(内容紹介より)


さて、千利休といえば、茶道を広めた人物として有名。

茶道の精神といえば、わび・さび。
さびは時間の経過と共に色あせて劣化することで出てくる味わいや趣ある美しさをいいます。わびはさびの味わい深さを美しいと思う心や内面的な豊かさを表します。両方が併さり、落ち着いて、静かで質素な、枯れたものから趣が感じられることをわび・さびといいます。
(世界のビジネスエリートが知っている 教養としての茶道    41p)



このような精神を広めた千利休、聖人君子のような人物をイメージしていましたが、この漫画での描かれ方は異なります。


へうげもの    8巻    150‐151p)

わび・さびの精神を広めるため、主君を裏切ったと。

理想の実現のためであれば、手を汚すこともしなければならない。
崇高な精神を世に広めた人物が、大きな業を背負っていたという矛盾。
清濁併せ吞む生き方に、人間臭さを感じます。
もちろん、これはフィクションですし、実際のところ織田信長の死についてもはっきりとしないことも多いみたいですが。


実はこないだ東京に行く機会があり、浅草で茶道体験をしてきました。 
https://www.chazen-co.jp/2020/09/01/1795/
🌸浅草で茶道体験 「浅草 茶禅」オープンのお知らせ - 茶禅 chazen
浅草で茶道体験 『浅草 茶禅』 格子戸を開けると、そこは広々とした“和の世界” 🍵浅草で気軽に
www.chazen-co.jp

千利休考案のにじり口など、非日常体験が興味深かったのですが、へうげものを読んだ後での体験だったので、より色んなことを考えさせられる機会になりました。

面白かったので、お勧めです(^^)/



以上、漫画紹介と茶道体験のススメでした~