家庭医療専門医の勉強記録

医学・非医学問わず、学んだことを投稿しています。内容の間違いなどありましたらご指摘ください。また、内容の二次利用については自己責任でお願いします。

【村の社会学】「田舎の人が親切」な理由 / 田を分けるのは「田分け者」 / 日本に「自然」はない / かけがえのない村人 etc


 

本書はサブタイトルを「日本の伝統的な人づきあいに学ぶ」として、生きるための知恵のうち、「人づきあい」を軸にして考えることにしました。ただ、人づきあいは人間が生きるための組織で(村もそのような組織のひとつです) 独立して存在しているわけではありません。組織のなかに溶け込んでいます。     そのため、本書では村そのものを総合的にとらえながら、そのなかで人づきあいを考えようとしています。
7p


本書の構造がいまいち捉えきれなかったので、箇条書き的に気になった部分を書いていく。

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定義

本書でいうところの村は、後者の、つまり江戸時代からの村をさします。この村こそが、地元の人たちの地域生活のまとまりのある単位であるからです。    22p

明治期に作られた、行政単位としての市町村ではない、と。

村単位で年貢の支払いが求められた時代、必然的に集団として協力せざるを得なかった。

「田舎の人が親切」なのはなぜ?

田舎では社会的な価値観として「つとめ」がキチンと機能しています。ひとりひとりの人間として、あるいは村のメンバーとして「つとめ」を実行しないということは、一人前の社会人として評価されないことになります。    30p

村社会は、他者への配慮が求められる社会であり、「つとめ」が必要になる。
ただ、単純な強制というわけではない。
村としての「つとめ」は強制のニュアンスが強いが、人としての「つとめ」となるとボランティア色が強まる。

「田舎の人が親切」なのは、個人の性格の問題ではない、という話。
以前の勤め先はまさに村社会で、ご近所さんが困ったときに助けたりとか、そうした親切が日常的に行われていました。一方、今住んでいるところは地方都市の街中で、そういう近所付き合いは希薄です。良い悪いの問題ではなく、社会的規範が違う。

スジとホンネ

「スジをとおすこと」だけでは頭の固いリーダーとみなされて評価をされませんし、「ホンネ」だけのリーダーでは、物事の分からない人という低い評価をされてしまいます。ふたつの中間というのがミソです。    34p

組織の中のローカルルール(明文化されてないものも含め)に対して、組織のリーダーはどう向き合うか。
これは何となくやっていた気がする。例えば、診察時間に遅れてやってきた患者さんにどう対応するか。
スジをとおすなら、時間外だからと言って帰ってもらう。
ホンネは、数分の遅れくらいならまぁいいかと対応する。とはいえ常態化されると困るし、スタッフも帰れない。
実際には、「今回は特別に対応しますけど、次回からは時間内に来てくださいね」と言う感じで間を取ることが多かった。

タテの人間関係:田を分けるのは「田分け者」

村の上下関係は大まかに3つの要素からなる。
・家格(家の出自)
・年齢(英米では年齢による上下関係が少なく、家格が重視される)
・(共同作業時に)作業に対する経験値

本家が代々継承してきた田を分家に分け与えることは、文字通り「 田分け者」と揶揄されました。    45p

例えば、本家分家は、長男と次男以下という年齢による上下関係。
ただし、これは単純な搾取‐非搾取関係ではなく、庇護と奉仕の関係だった。
分家は本家の仕事を手伝ったりして仕える。
本家は多くの田を持ち、飢饉時には分家を支える。
全員が平等だと、有事の際にトップダウンですばやく動けない。
医療現場だと、救急対応なんかがまさにそれですね。チームで平等に話し合うのではなく、医師がトップダウンで指揮を執るのが必要な場面。

ヨコの人間関係:ホンネと建前の使い分け

村は三世代で住むことが多かった。
成人の世代は昼間は仕事をしている。老人世代は孫世代の面倒を見ている。

例えば成人女性は、子育講(安産祈願や子の成長を祈ったりする集まり)に出席する。
が、そういう集まりでは夫や姑の噂話をして気晴らしをするのがホントの目的だったりする。夫や姑も薄々気づいてはいるが、それでもご苦労様と言って送り出す。

日本には(手つかずの)「自然」はない

コメは日本の在来種ではなく、日本の自然の中では十分な生育ができない。
(コメはもともとは中国南部が原産とされ、乾季・雨季がハッキリしている地域のほうがよい生育をする)

田は自然な雨だけでは十分な水量を確保できないので、川から水を引いたりして人の手を加えることが必要になる。
そのため、昔から日本の村には手つかずの自然はなく、いわば「人間参加型自然」がある。

リーダーは嫌われ役たれ

例えば、自分の田んぼの横に神社があり、神社の高い木々のせいで日陰になってしまうから、木を苅ってしまいたいとする。でも神社の木は神聖であり、勝手に苅るわけにいかないので、村の皆で話し合う。

木を苅るかどうか、話し合っても最終的な結論が出なかったらどうするか。
多数決をすると後々しこりが残ってしまう。
そういうとき、リーダーが最後に決着をつけるケースがよくあった。

村ではその後も毎日みなが顔を合わせるわけですから、しこりが残るのはマズイわけです。あの人が賛成に手を挙げ、あの人が反対に手を挙げたと記憶されると後々まで尾を引きます。リーダーをとりあえずの〝悪者〟にしたほうが都合がよいわけです。こうしたことに自覚的なリーダーがすぐれたリーダーなのです。    81p

 

かけがえのない村人

市場経済は交換で成り立っていて、例えば労働者も労働力と賃金を交換している。
つまり市場経済における人間は交換可能な存在である。

一方で、村の人間には交換可能な人間はいない。これには3つの前提がある。
・村は顔見知り(Face to face)が可能な程度の人数規模である。
・共同の労働がある。→お互いの得意不得意が把握できる。
・村の自治がある。→仕事を外注できない。

本書には記載がないが、人の出入りがほとんどないことも重要だとと思う。
例えば小さな職場だと「交換可能な人間はいない」ように思いがちだが、一人が退職したとて代わりに誰かを雇えばある程度代替できる。なので交換可能性は村ほど低くはない、

 

弱者救済:仕事をしたい!

村には弱者救済の機能があった。下記は「火焚き婆」の事例。

守ってくれる家族もいなくなった高齢でひとり身になった女性でも、大きな家の台所の火の番を与えられて暮らしを成り立たせる工夫があった    100p


ポイントは、ただ何かを恵むだけではないということ。

これは、弱者でもなにかできる能力があるならば、それで働いてもらうという発想です。労働をしないで食べ物をめぐむという発想はできるだけ避けるようにしていました。めぐむという行為になった瞬間、その人はその社会での存在価値がなくなってしまうものです。    100p

高齢者施設に行くと、掃除用の雑巾を作ったり、洗濯物を畳んだり、料理を手伝ったりしている入居者が意外と多いことに気づく。時に、健康体操をやらされている時よりも生き生きしていたりする。
仕事は多すぎるとしんどいが、なさすぎてもしんどいのかもしれない。



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以前働いてた新潟県南魚沼市では、「本家」「分家」という言葉を時々患者さんから聞いた。

僕は長野出身だが、「本家」「分家」という言葉を実際に聞いたのは初めてだったので、新鮮だった。

うちが両親とも医師の家系だったからそうした言葉に馴染みがなかっただけで、どこでもそれなりに「本家」「分家」は残っているのか?

それとも南魚沼市が比較的稀な事例なのか?米農業が盛んな地域だったので、現在に至るまで名残が残ってるのかもしれない。