本書は國分功一郎さんと、熊谷晋一郎さんの共著。
國分さんは「暇と退屈の倫理学」や「中動態の世界」で有名な哲学者。
熊谷さんは「リハビリの夜」や当事者研究で有名な、脳性麻痺の小児科医。
この本は「中動態の世界」の続編ともいえる本である。
中動態についての説明も含まれているため、本書だけでもある程度議論についていけるとは思うが、前著を読んでから読むことをおすすめしたい。
「暇と退屈の倫理学」とも絡めた議論がされており、そちらが好きな方も楽しめるのではと思う。
*「中動態の世界」「暇と退屈の倫理学」に関しては別ブログで紹介しています。
本書は國分さんと熊谷さんの対談本であり、様々な話題が出てきたが、本ブログでは「責任」の観点に絞って要約を試みることにした。
本ブログ要約
一般的な責任(堕落した責任、押し付けられた責任)とは、応答すべき人が応答しないときに、応答を強制することである。
一方で真の責任とは、「自分が応答するべき何かに出会ったとき、責任感を感じ、応答する」ことである。
真の責任を取れるようになるためには、免責が必要だ。
逆説的だが、免責により引責が可能になる。
一般的な責任
授業中に寝ている学生がいた。
先生が理由を聞くと、「朝までゲームをしていた」からどうしても寝てしまうのだという。
これを聞いた先生は怒った。
「早く寝ることもできたのに、自分の”意志”でゲームすることを選んだ」から、「授業中の居眠り」の”責任”は彼にある、というわけだ。
だが、実際彼は、なんとなく朝までゲームをしてしまっただけで、自らの”意志”でゲームしようとしたわけではない、かもしれない。
それなのに、早寝とゲームとでゲームを能動的に選択したとみなされ、それゆえに”責任”を問われ、叱責される。
責任を問うべきだと思われるケースにおいて、意志の概念によって主体に行為が帰属させられているのです。 116p
真の責任とは「義の心」である
責任=responsibility=response(応答)+ability(能力)
論語の「義を見てせざるは勇無きなり」
=「人の道として当然行うべきことと知りながら、実行しないのは、勇気がないのだ」
何かやらなければならない、という義を感じ、その義に応じようとするとき、人は義に対して”応答”していることになる。
責任というのはこのような「義の心」のことではないでしょうか。自分が応答するべき何かに出会ったとき、人は責任感を感じ、応答する。これがそもそもの責任という言葉の意味ではないでしょうか。 119p
一般的な責任=堕落した責任、押し付けられた責任
応答するべき人が応答しないときに、仕方なく、意志の概念を使って、その当人に責任を押し付ける。
”応答する義務感”を感じない人に対して、”応答する義務”を強制する、と言ってもいいかもしれない。
ただ、強制されると、応答はせざるを得ないが、応答しようという義務感(責任感)は生じない。
では、真に責任を感じることができる人になるためには、どうしたらよいのか。
免責と引責
アルコール依存症の自助グループであるアルコール・アノニマス(AA)では、依存症から回復するための12ステップのプログラムがある。
https://aajapan.org/12steps/ (本書でも137pに再掲あり)
1で、「意志を持って能動的に人生をコントロールしていく」という思想から降りる。
これは、自分の意志ではどうしようもないと認めることであり、一般的な意味では”無責任”である。しかしその状態を認め、”免責”する。
2や3はやや宗教的表現だが、人知を超えたものへの畏怖や信仰が書かれている。
4の棚卸しとは過去を振り返るプロセスである。振り返ると、被害者としての自分や加害者としての自分が浮かび上がってくる。
5-7で振り返りを深める。
そうすることで自然と湧き上がってくるのが8の「その人たち全員に進んで埋め合わせをしようとする気持ちになった」。これは応答したい、しなければいけないという「責任」の生成である。”引責”できるようになった、ともいえる。
9以降は実際に償いをするプロセス。
このプロセスを見ると、”免責”されることが最終的に”引責”へとつながっていることがわかる。
小さい頃、悪いことをしたとき、
バレて怒られたら「そんなことで怒らなくてもいいじゃないか」と反発心が芽生えた。
バレなかったらその場はしのげるが、後々「ホントはあれは良くなかったかな・・・」と却って罪悪感を感じた。
それと似ているかもしれない。
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(以下、メモ)
日常は決して当たり前に存在しているものではない。それはなんらかの仕方で獲得されねばならない。日常は生きることの出発点ではない。それは生き延びた先にある。 6p
■ヒューマン・ネイチャーとヒューマン・フェイト
人間には状態を維持しようとする能力(コナトゥス、ホメオスタシス)があり、それは人間に生来備わった能力である。=ヒューマン・ネイチャー
状態を維持するなら部屋の中にじっとしているのが一番だ。しかし人間は生きていると傷を負い、じっとしていると傷が疼いて耐えられない=「退屈」
そうすると、外の世界に出て「気晴らし」をする。外界では誰も無傷ではいられず、傷だらけになる運命にある。=ヒューマン・フェイト
■ディスアビリティのインペアメント化
インペアメントimpairment=impair(損なう)+ment(状態)
機能障害。例:脳梗塞後で、片側の手足が麻痺(片麻痺)して動かない
環境から独立して存在している障害。
ディスアビリティDisability=Dis(否定)+Ability(能力)
能力障害。例:片麻痺により階段昇降ができない。→杖や周囲の支えがあればできる
環境との相互作用により出現したり消えたりする障害。
ディスアビリティのインペアメント化とは、環境との相互作用により出現している障害なのに、その個人の能力が原因だとされてしまうこと。
例えば、広い意味での「コミュニケーション障害」は、コミュニケーションという相互作用がうまくいってない状態なのに、なぜか特定の個人のせいにされてしまっている。
多くの場合、マジョリティに適合できないマイノリティ側のせいにされてしまっている。